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サー・フィリップ・シドニー(Sir Philip Sidney, 1554年11月30日 – 1586年10月17日)は、エリザベス朝のイングランドの詩人、廷臣(courtier)、軍人。『アストロフェルとステラ』、『詩の弁護』、『アーケイディア』の著者として知られている。 ==生涯と家族== フィリップ・シドニーはケントのペンスハースト(:en:Penshurst)に、サー・ヘンリー・シドニー(:en:Henry Sidney)とレディ・メアリー・ダドリーの長男として生まれた。母親は初代ノーサンバーランド公ジョン・ダドリーの娘で、初代レスター伯ロバート・ダドリーの姉妹だった。フィリップの妹のメアリー(:en:Mary Sidney)は第2代ペンブローク伯ヘンリー・ヒューバート(:en:Henry Herbert, 2nd Earl of Pembroke)と結婚し、またフィリップの詩の翻訳家・パトロンとして重要な人物でもあった。フィリップ最長の作品『アーケイディア』は妹メアリーに献呈されたものである。 フィリップ・シドニーはシュルーズブリ・スクール(:en:Shrewsbury School)、オックスフォード大学クライスト・チャーチで教育を受けた。よく旅し、よく学んだ。1572年、エリザベス1世とアランソン公(アンジュー公フランソワ)との結婚に関しての交渉使節団の1人としてフランスに渡った。その後数年間、ヨーロッパ本土にとどまり、ドイツ、イタリア、ポーランド、オーストリアを歴訪した。その間、多くの著名なヨーロッパの知識人および政治家と知り合った。 1575年にイングランドに帰国したシドニーは後のデボンシャー伯爵夫人ペネロピ・ブロント(:en:Penelope Blount, Countess of Devonshire)であるペネロピ・デヴァルー(デヴルー)と出会った。ペネロピの父の初代エセックス伯ウォルター・デヴァルー(:en:Walter Devereux, 1st Earl of Essex)は娘をシドニーに嫁がせるつもりだったと言われるが、ウォルターは1576年に亡くなってしまった。イングランドで、シドニーは政治と芸術に多忙だった。シドニーは非常に長い文書の中で父親のアイルランド運営を擁護した。 より深刻だったのは、第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーと諍いを起こしたことで、おそらくヴィアーが擁護したフランスとの縁組みにシドニーが反対したからだと思われる。その余波でシドニーはヴィアーに決闘を挑んだが、エリザベス1世はそれを禁止した。シドニーはエリザベス1世に、フランスとの縁組みの愚かさを綴った長文の手紙を送った。いかにもなことだが、エリザベス1世はシドニーの出しゃばりに激怒し、シドニーはすごすごと宮廷から身を退くことになってしまった。 シドニーの芸術への転向は、シドニーの名を後世に残すことになった。宮廷から引退している間に、シドニーは『アーケイディア』と『詩の弁護』を執筆した。その少し前、シドニーはエドマンド・スペンサーと知り合って、スペンサーは『羊飼いの暦』(:en:The Shepheardes Calender)をシドニーに献呈した。他にも、シドニーは英語詩を古典風にするための人道主義的試み「アレオパゴス」(:en:Areopagus (poetry)。作り話の可能性もある)の一員となった。妹メアリーとは、シドニーがはじめた詩篇の韻文への翻訳を、シドニーの死後、メアリーが完成させるほど親密なものだった。 シドニーは1581年の中頃には宮廷に戻っていた。同じ年、ペネロピ・デヴァルーは初代ウォリック伯ロバート・リッチと結婚した。過去にウィリアム・セシルの娘アンとの結婚が進められたことがあったが、1571年に破談となり、最終的にアンはドゥ・ビアーと結婚した。1583年、シドニーはフランシス・ウォルシンガムの十代の娘フランセス(:en:Frances Walsingham)と結婚した。同年、ナイト爵を授けられた。翌1854年、シドニーはジョルダーノ・ブルーノと知り合った。ブルーノは後に2冊の本をシドニーに献呈した。 シドニーは激しく好戦的なプロテスタントだった。家がそうだったのと、個人的な体験(1572年のサン・バルテルミの虐殺の時、シドニーはフランスのウォルシンガムの家にいた)両方の理由からである。1570年代に、シドニーはJohann Casimir(:en:Johann Casimir of Simmern)に、カトリック教会とスペインに対してプロテスタントの力を結集する提案を考えるてくれるよう説得した。1580年代のはじめには、失敗に終わったが、スペイン本国への攻撃を訴えた。1585年、オランダのフリシンゲン(:en:Vlissingen, Netherlands)知事に就任した時、シドニーのプロテスタント闘争の熱意はいっきに解き放たれた。オランダでシドニーは上役で伯父の初代レスター伯ロバート・ダドリーに決断を迫った。そして1586年7月、シドニーはAxel(:en:Axel (Netherlands))近郊のスペイン軍の急襲を指揮し、成功した。 続いて同年のジュトフェンの戦い(:en:Battle of Zutphen)ではサー・ジョン・ノリス(:en:John Norreys)の軍に加わった。包囲期間中、シドニーは腿を撃たれ、26日後に亡くなった。伝えられるところでは、負傷して横たわっている間、やはり負傷した兵に「私以上に君に必要なものだろう」と言って、水筒を譲ったという。この話はシドニーの高貴なキャラクターを表す時の最も有名な逸話となっている。 シドニーの遺体はロンドンに戻され、1587年2月16日、セント・ポール大聖堂に埋葬された。既に生前からそうであったが、さらに死後、シドニーは多くのイングランドの人々にとって、廷臣の鑑となった。博識、賢明、だが同時に寛大、勇敢、直情的。当時の政治家の中でもシドニーほど重要な人物はおらず、エドマンド・スペンサーはイギリス・ルネサンス最高のエレジーの1つ『アストロフェル』の中で、シドニーのことをイングランド男子の花と讃えた。 シドニーに関する伝記が友人で学友の初代フレク・グルヴィル(:en:Fulke Greville, 1st Baron Brooke)によって著された。 なお、ライハウス陰謀事件の首謀者アルジャーノン・シドニー(:en:Algernon Sydney)は、フィリップ・シドニーの甥の息子である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フィリップ・シドニー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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