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フィンシュハーフェンの戦い(フィンシュハーフェンのたたかい、英:Battle of Finschhafen)は、太平洋戦争(大東亜戦争)中のニューギニア戦線における日本軍とアメリカ・オーストラリア軍との間の戦闘である。パプアニューギニアのモロベ州北東部のフィンシュハーフェンにおいて、1943年9月22日から同年12月下旬まで行われた。結果は、戦術的・戦略的にも日本軍の惨敗であった。 == 背景 == フィンシュハーフェンはニューギニア島東部の東に突き出たフォン半島に位置しており、船舶の隠しやすい港と、まだ整備されていなかったものの滑走路が存在していた。日本軍は、1942年3月10日にフィンシュハーフェンへ上陸し占領した。日本軍にとってはニューブリテン島のラバウルからダンピール海峡を通って対岸のニューギニア島へ通じる補給路の要所であり、連合軍にとってはビスマーク海からニューギニア島西部へ向けての進攻路に位置していた。 1943年9月当時、フィンシュハーフェンに展開していた日本軍は、第1船舶団司令部と第41師団歩兵第238連隊第1大隊基幹の750名、海軍第85警備隊の一部(435名)のほか、第51師団第4野戦病院と入院中のラエ・サラモアの戦いでの傷病兵にすぎなかった。しかも8月15日に編成されたばかりの海軍第85警備隊は本来の陸戦要員400名が未到着で、先行した本部20名の下に現地所在の雑多な部隊を寄せ集めただけであった。これらのフィンシュハーフェン防衛部隊は、第1船舶団長の山田栄三少将が総指揮を執っていた。このほかに付近には、1943年1月下旬にウェワクに上陸した第20師団(兵力約1万3千名)が存在していた。第20師団は、マダンに航空基地を建設した後、4月以降、マダンからラエまでの道路を建設している最中で、300キロにわたる工程のうち途中60キロまで工事を終えていた。ラエでの戦闘が激化する中、フィンシュハーフェンの防衛が手薄なことに危険を感じた第18軍 司令官安達二十三中将は、8月10日、第20師団の一部にフィンシュハーフェン防衛のための移動を命じた〔戦史叢書 58 P.10-11〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フィンシュハーフェンの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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