|
グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck、あるいはVerbeek〔オランダではVerbeekでフェアビークと呼ばれていた。アメリカ移住のとき、アメリカ人が発音しやすいようにVerbeckと変えた。一方で青山墓地のフルベッキの墓碑銘はVerbeekと刻されている。〕、1830年1月23日 - 1898年3月10日)は、オランダ出身〔フルベッキはオランダに長い間帰国しなかったのでオランダ国籍を喪失した。友人グリフィスも著書で彼を「国籍のない人」と言っている。〕で、アメリカ合衆国に移民し、日本に宣教師として派遣され活躍した法学者・神学者、宣教師。 日本で発音されやすいようフルベッキと称したことから、現在に至るまでこのように表記されている。 == 生涯 == === 初期 === 1830年にオランダ、ユトレヒト州のザイストで資産家の父カールと教育者の母アンナとの間に8人兄弟の6番目の子供として生まれた〔フルベッキ家は裕福なアムステルダムの商人で、ドイツ人とオランダ人の名家の婚姻によって生まれた家である。(『長老・改革教会宣教師来日辞典』187ページ)〕。フルベッキ家は代々モラヴィア派に属していたので、フルベッキはモラヴィア派の学校に通い、同派の学校でオランダ語、英語、ドイツ語、フランス語を習得している。また、同派で洗礼を受けた。ただしザイスト市の資料では、家族全員がルター派として登録されている。フルベッキはモラヴィア派の影響で、宗派的な対立には寛容であったとされる。少年時代、中国宣教師のカール・ギュツラフにより東洋宣教の話を聞き、海外伝道に興味を持っていた。モラヴィア派の学校を卒業後、ユトレヒト工業学校に進学し、工学を学んだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グイド・フルベッキ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Guido Verbeck 」があります。 スポンサード リンク
|