|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
フレッド・ブラッシー(Fred Blassie、本名:Frederick Kenneth Blassman、1918年2月8日 - 2003年6月2日)は、アメリカ合衆国のプロレスラーおよびプロレスのマネージャー。ミズーリ州セントルイス出身。 反則の噛みつき攻撃を得意としていたことからヴァンパイア(Vampire)と呼ばれる一方、「粋な」「高級な」などを意味するクラッシー(Classy)をニックネームにもしていた。ハリウッド・ファッション・プレート(The Hollywood Fashion Plate)の異名も持ち、スポーツ・エンターテインメントのプロとして衣装などのビジュアル面には非常に気を使っていたことでも知られ、後年のザ・ロックやクリス・ジェリコらが彼の影響を受けた〔『フレッド・ブラッシー自伝』P253-254〕。 日本では「銀髪鬼」「吸血鬼」「噛みつき魔」などと呼ばれ、力道山との試合などで黎明期の日本プロレス界に衝撃を与えた。親日家でもあり、後妻のミヤコ夫人は1965年の来日時に出会った日本人で、1968年に結婚した〔『フレッド・ブラッシー自伝』P229〕。 決め台詞は自伝のタイトルにも使われた "Listen, You Pencil Neck Geeks!" (「よく聞け、このヘタレ野郎ども!」などの意味)。 == 来歴 == ハイスクール時代はボクシングや野球をしていたが、精肉所で働きながらプロレスのトレーニングを積み、1935年に地元のミズーリ州セントルイスにてデビュー〔『フレッド・ブラッシー自伝』P24-25〕。その後も精肉所での仕事を続けながら中西部地区のリングに上がり、サーカスのカーニバル・レスリングにも出場するなどしてキャリアを積んだ〔『フレッド・ブラッシー自伝』P29-31〕。 1941年12月、アメリカ海軍に入隊し第二次世界大戦へ出征〔『フレッド・ブラッシー自伝』P42〕。戦後、水兵ギミックの "セーラー" フレッド・ブラッシー(''"Sailor" Fred Blassie'')としてプロレス界に復帰〔『フレッド・ブラッシー自伝』P50〕。1950年8月29日にはケンタッキー州ルイビルにて、ルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。 1952年、後の主戦場となるカリフォルニア州ロサンゼルスにてフレッド・マクダニエル(''Fred McDaniels'')と名乗り、同郷のビリー・マクダニエルとギミック上の兄弟コンビを結成〔『フレッド・ブラッシー自伝』P72〕。ルイビルではファミリーネームをブラッシーに戻し(ビリー・マクダニエルもビリー・ブラッシーと改名)、1953年からはビリーとの「ブラッシー・ブラザーズ」として南部のジョージア州アトランタに定着。ジェリー・グラハム&ドン・マッキンタイアなどのチームを破ってジョージア版のNWA世界タッグ王座を奪取する一方、シングルでもミスター・モトやブル・カリーを下してNWA南部ヘビー級王座を再三奪取した。 ジョージアではベビーフェイスのポジションで活動していたが、北部のセントルイス出身のため、南部のファンからはブーイングを浴びせられることもあり、ビリーとのコンビ解消後の1956年よりヒールに転向〔『フレッド・ブラッシー自伝』P84〕。影響を受けていたゴージャス・ジョージにあやかって赤毛の髪を金髪に染め〔『フレッド・ブラッシー自伝』P86〕、口汚いトラッシュ・トークと相手への噛みつき攻撃をトレードマークに、"ヴァンパイア" フレディ・ブラッシー(''"Vampire" Freddie Blassie'')として観客の憎悪を煽った〔『フレッド・ブラッシー自伝』P88〕。1957年3月26日には、テネシー州ナッシュビルにてNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得している。 1960年代に入ってロサンゼルスに再登場し、WWAの前身団体であるNAWAにおいて、1961年6月12日にエドワード・カーペンティアからNAWA世界ヘビー級王座を奪取。WWA設立後、タイトルは「WWA世界ヘビー級王座」と改称されたが、1962年3月28日、アメリカ遠征中の力道山に敗れ王座から陥落〔。日本に流出したタイトルを取り戻すべく、翌月に日本プロレスに初来日している〔『世界名レスラー100人伝説!!』P52(2003年、日本スポーツ出版社、監修:竹内宏介)〕(日本での活躍は後述)。この日本遠征では奪還に失敗したものの、1962年7月25日、ロサンゼルスで力道山を破りWWA王者に返り咲く〔。以後、ザ・デストロイヤー、ベアキャット・ライト、ディック・ザ・ブルーザーらを相手にタイトルを争い、1964年にかけて通算4回戴冠した〔。 1964年下期よりWWAを一時離れ、ビンス・マクマホン・シニアに呼ばれてWWWF(現:WWE)に参戦。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでは、7月11日と8月1日の定期戦において、ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦した。1965年には再び南部マットに登場、NWAのフロリダ地区においてターザン・タイラーと組み、1月27日にエディ・グラハム&サム・スティムボートからフロリダ版のNWA世界タッグ王座を奪取している。 1960年代後半よりロサンゼルスに戻り、WWAおよび後継団体のNWAハリウッド・レスリングで活動。1967年8月25日にマーク・ルーインを破ってNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得し、10月20日にはバディ・オースチンと組んでペドロ・モラレス&ビクター・リベラからWWA世界タッグ王座を奪取した。その後も1972年までロサンゼルスを主戦場に、フラッグシップ・タイトルのアメリカス・ヘビー級王座を巡り、ボボ・ブラジル、ザ・シーク、ジョン・トロス、ロッキー・ジョンソン、ミル・マスカラス、キンジ渋谷、キラー・コワルスキーらと抗争を展開した。 ロサンゼルスでの活動と並行して1970年代前半もWWWFへの参戦を続け、新王者のペドロ・モラレスにも挑戦していたが、膝を負傷したこともあって1973年に現役をセミリタイアし、1974年よりWWWFにてマネージャーに転向、最初の担当選手としてニコライ・ボルコフをマネージメントした〔『フレッド・ブラッシー自伝』P309-311〕。以降、"クラッシー" フレディ・ブラッシー(''"Classy" Freddie Blassie'')と名乗って日本人選手を含む様々なヒールのマネージャーを務め(後述)、1983年12月にはアイアン・シークにボブ・バックランドからWWFヘビー級王座を奪取させた〔『フレッド・ブラッシー自伝』P387-388〕。1984年よりビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で開始された全米侵攻サーキットにも同行していたが、1986年9月、健康上の問題でマネージャー業から引退、後任としてスリックがブラッシーの担当選手を引き継いだ。 1994年にはレスラーおよびマネージャーとしての功績を称え、WWF殿堂に迎えられた〔。2003年4月に自伝 ''"Listen, You Pencil Neck Geeks!"'' を上梓し、5月12日にWWEのRAWにゲスト出演したが、直後の5月24日に倒れ、6月2日にニューヨーク郊外の病院で死去。長い間心臓と腎臓に疾患を抱えており、これが悪化したことが死因とされている〔。 ビンス・マクマホン・ジュニアが父親のビンス・マクマホン・シニアからWWEを買い取る際、提示された条件がブラッシーとジェームズ・ダッドリーの永久雇用であった。そのため彼は現場から退いた後も、生涯WWEのテレビ放送の在宅モニターを務めつつ、チャリティー担当役員となって障害児やホームレスなどの支援施設への慰問活動を行った〔『吸血鬼が愛した大和撫子』P183〕。また、マクマホン・ジュニアもブラッシーが死去するまで「ファイトマネー」を支給し続けていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フレッド・ブラッシー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|