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フレデリック・ウィリアム・ストレンジ : ミニ英和和英辞書
フレデリック・ウィリアム・ストレンジ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


フレデリック・ウィリアム・ストレンジ : ウィキペディア日本語版
フレデリック・ウィリアム・ストレンジ
フレデリック・ウィリアム・ストレンジ(Frederick William Strange、1853年10月29日 - 1889年7月5日)はイギリスロンドンから1875年3月23日に来日した英語教師〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.104〕。日本における近代スポーツの父とされ、陸上競技ボート野球といった競技の普及に努めた〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.7〕。スポーツマンシップを説き、学生に課外活動としてスポーツに取り組ませることで、今日の日本の学校において一般化している「部活動」や「運動会」といった活動の礎を築いた〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』pp.192-195〕。著書『アウトドア・ゲームズ』は日本初のスポーツガイドブックである〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.147〕。ストレンジの半生は長らく不明とされてきたが、高橋考蔵や渡辺融らの継続的な調査によって2007年頃、明らかとなり、2008年日本体育学会にて発表された〔体育史専門分科会・会報(No.187/2008.1.1) 〕。
==経歴==
フレデリック・ウィリアム・ストレンジは1853年10月29日、ロンドン大学の近くでパブを営んでいたワイン商の父ジェームス・トンプソン・ストレンジと母マーサの間に8人兄弟の五男として生を受けた〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』pp.30-32〕。元数学教師であったジェームスは息子達の教育に熱心で、ストレンジは7歳の頃、次兄のオーランド・ベイリーと共にロンドン北西地区ハムステッドの寄宿舎付きのチェリトン・ハウス・スクールへ出された〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.48〕。14歳で同校を卒業したストレンジは1868年に飛び級で自宅近くのユニヴァーシティ・カレッジ・スクール(ロンドン大学)へ入学することになるが、後にストレンジの将来に大きな影響を与えることになる菊池大麓も同じ年に幕府留学生として同校へ留学している〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』pp.64-70〕〔『Univ.College London School Register 1866-67 to 1870-71』〕。同年秋、ユニヴァーシティ・カレッジ・スクールを中退し、末弟のフランク・ヘースティングとともに親元から離れたケント州東部のターネット・カレッジエート・スクールへ転校した〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.76〕。在学中にCOP(The College of Preceptors)の教員認定試験とオックスフォード大学のOUDLE試験に合格を果たし、準学士の称号を獲得した〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』pp.78-79〕。
1869年の父の死に伴い、1870年後半にはターネット・カレッジエート・スクールを中退して実家に戻り、父の後を継いでワイン商となった長男ジェームス・ウォルターを手伝うこととなった。また、一家は父が残した8,000ポンド(現在の価値で約1億1000万円)の資産を元にテムズ河畔のチズィックに転居した〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.82〕。17歳になったストレンジはここで家業の傍らテムズ河で活動するローイング・クラブに所属し、ボート競技に関する素養を育んだとされている〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.86〕。
この頃から1875年の来日まで、ストレンジに関する記録は残されていないが、高橋孝蔵は自著『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』において、1872年の岩倉使節団の訪英及びイギリス国内の日本ブームという歴史的な背景と、1870年に再度渡英してユニヴァーシティ・カレッジ・スクールを首席で卒業し、ケンブリッジ大学へ入学を果たした菊池大麓が大学のローイング・クラブに所属していたという事実から、テムズ河でローイング・クラブに所属していたストレンジとなんらかの邂逅があり、来日を決断させるに至ったのではないかと推察している〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.102〕。
1875年3月23日、21歳になったストレンジは英国汽船オリッサ号に乗り横浜港へ到着すると、同年4月、一ツ橋の東京英語学校での職を得る〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.104〕。月給は百円と他のお雇い外国人と比較すると最も安いが、それでも当時の日本人教員の月給(五円から十円)と比べればかなりの高給であった〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.119〕。当時の資料では同校の英語教師の他に東京大学予備門の英語や数学も担当したとされている〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.115〕。
駅伝の命名者として知られるスポーツ指導者の武田千代三郎はストレンジの教鞭を受けた一人であり、ストレンジの人物像について「ストレートな物言いで口は悪いが生徒には慕われる先生であった」と振り返っている〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』pp.120-123〕。
授業の傍ら、ストレンジは東京大学予備門の学生たちに熱心にスポーツを教え、同時に自身も複数の外国人スポーツクラブの会員となり、様々な大会や競技会に参加している〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.134〕。東京アマチュア競技協会の記録によれば、来日した翌1876年のクリケットボール投げと1マイル競争で優勝しており、その翌年にはハンマー投げ棒高跳びで2位になるなどしている〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.134〕。また、私生活ではこの頃出会ったエディス・ドワイト・サンフォードと1882年に結婚し、間に男女一人ずつの子供を授かっている〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』pp.174-175〕。
ストレンジの草の根的なスポーツ奨励活動はやがて実を結び、1883年6月16日、ストレンジ主催で東京大学と予備門合同の陸上運動会が開催されるに至った〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.140〕。第一回の競技種目は百ヤード競争、二百二十ヤード競争、四百四十ヤード競争、ハードルレース、走り高跳び走り幅跳び、棒高跳び、ハンマー投げ、砲丸投げ、クリケットボール投げなど、陸上競技の三要素を全て含んだ本格的なものであった。この大会は年を重ねるごとに人気を博し、やがて全国の学校へと広がっていくこととなった〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.141〕。武田千代三郎はストレンジが興した東大運動会が日本で初めての運動会であったと語っているが、実際には築地の海軍兵学寮の競闘遊戯会(1874年)、札幌農学校の遊戯会(1878年)など、同様の趣旨の大会は散発的に開催されていた〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』pp.144-145〕。また、ボートの分野では学生にボートのルールや技法を伝えるだけでなく、継続して活動・定着化できるような組織作りに貢献し、1884年には日本初の学生レガッタである「東京大学走舸組競漕会」を開催している〔1976年『ボート百年』宮田勝善〕。
スポーツ文化の普及に対する貢献が評価されたストレンジは1888年4月27日、34歳の若さで勲五等双光旭日章を授与されるに至ったが、翌1889年7月5日、突然の心臓発作に見舞われ、死去した〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』pp.202-203〕。。その死は葬儀の様子と共に英字新聞を含めた各新聞で驚きと悼みを持って伝えられた〔『倫敦から来た近代スポーツの伝道師』p.203〕。
ストレンジの墓所は青山霊園に建立されており、日本陸上競技連盟が墓所管理を行っている。2013年にはストレンジの生誕160周年という節目の年を迎えた為、日本陸上競技連盟主催で墓前祭を執り行った〔F・W・ストレンジ氏 生誕160周年の会を開催致しました 日本陸上競技連盟トピックス 2013年11月1日付〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フレデリック・ウィリアム・ストレンジ」の詳細全文を読む




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