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マーティ・レオ・ブラウン〔楽天公式サイトではマーティー・ブラウンと表記されていた。〕(Marty Leo Brown, 1963年1月23日 - )は、アメリカ合衆国・オクラホマ州ロートン出身の元プロ野球選手(外野手および内野手)。 日本でも広島東洋カープで3年間プレー。引退後、からまで広島、は東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を歴任した。 == 来歴・人物 == ジョージア大からにMLBドラフト12巡目でシンシナティ・レッズに入団。にメジャー初昇格。にボルチモア・オリオールズに移籍し、通算35試合に出場。その後、ミネソタ・ツインズ傘下のAAA級ロチェスター・レッドウイングス、にコロラド・ロッキーズ傘下のAAA級コロラドスプリングス・スカイソックスを経て、に広島東洋カープに入団。さほど突出した成績は残さなかったが、ヘッドスライディングや外野フライをキャッチした後にフェンスを乗り越えるプレーなどが話題となる。に広島を自由契約となり、にテキサス・レンジャーズ傘下のAAA級オクラホマシティ・レッドホークスに所属したのを最後に現役を引退した。 引退後の翌からMLBのマイナーリーグで監督を務め、からクリーブランド・インディアンス傘下のAAA級バッファロー・バイソンズの監督に就任。にはインターナショナルリーグで優勝、週刊誌『ベースボール・アメリカ』からマイナーリーグ最優秀監督賞を受賞する。この3年間の成績は、238勝193敗、勝率.552であった。また、AAA級監督時代に3年間で22回の退場を記録した〔ブラウン監督砂かけベース隠し退場も不敗 - 日刊スポーツ 2007年4月11日〕。2004年にはグレッグ・ラロッカ、2005年にはケニー・レイボーンを古巣の広島カープに送り込む。そうした実績も考慮され、から広島東洋カープの監督に就任する。 1年目、2年目は5位。3年目のは勝率5割にわずかに届かなかったものの、最後までクライマックスシリーズ進出争いに踏みとどまり、4位で終了。ファンサービスを重視し、サインや写真撮影などを求められた時は笑顔で応じている。なお現役時代はファンから「ブラウン」と呼ばれていたが、監督就任後は本人の要望〔2006年シーズン前に中国放送の番組にて「マーティと呼んでね」と日本語でお願いしていた。〕で「マーティ」と呼ばれることも多い。 1月30日、広島市在住の20代後半の日本人女性と結婚した(ブラウンは離婚歴があるため再婚になる)。 2008年オフ「Aクラス入りなら、翌年の契約を更新する」との条件で球団と1年契約を結んでいたが〔広島・ブラウン監督退任へ 後任候補にOBの野村氏 - 朝日新聞 2009年10月5日〕、10月4日の対横浜戦で敗戦したため、Bクラスが確定し退任が決定。10月10日の対巨人戦が広島で指揮を執る最後の試合となった。 から東北楽天ゴールデンイーグルス監督に就任。楽天球団初の外国人監督となった。背番号は広島時代の「71」から、ブラウン自身のラッキーナンバーを揃えた「81」に決定。コーチ人事はヘッドコーチのジェフ・リブジー以外球団主導で決まった〔週刊ベースボール2009年12月7日号、P104〕。前年、初のAクラス入り(2位)を果たしたチームを引き継いだが、開幕から4連敗するなどシーズンを通して一度も勝率5割に届かず、チームとして4年ぶりの最下位に終わった。全日程を終了した9月29日、球団から解任が発表され〔ブラウン監督との契約終了について - 東北楽天ゴールデンイーグルスオフィシャルサイト 2010年9月29日〕、10月21日に帰国した。 帰国後の同年11月30日、トロント・ブルージェイズ傘下のAAA級ラスベガス・フィフティワンズの監督に就任〔再就職先あった!ブラウン楽天前監督に新天地 - スポーツニッポン 2010年12月1日〕。 からは、この年よりブルージェイズ傘下に変更となったAAA級バッファロー・バイソンズの監督に就任し、同年退任。 には、ワシントン・ナショナルズの環太平洋地域コーディネーターに就任〔元監督のブラウン氏 マエケンを視察「投球術が成長した」 - スポーツニッポン 2014年4月13日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マーティ・ブラウン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Marty Brown (baseball) 」があります。 スポンサード リンク
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