翻訳と辞書
Words near each other
・ ブラッシア
・ ブラッシア属
・ ブラッシカ・ラパ
・ ブラッシャイ
・ ブラッシュビル・ロード駅
・ ブラッシュビル駅
・ ブラッシュファイアー・レコーズ
・ ブラッシュボイス
・ ブラッシュボール
・ ブラッシュ・モーター・カー・カンパニー
ブラッショー
・ ブラッシング
・ ブラッシンググルーム
・ ブラッシンググルーム系
・ ブラッシング法
・ ブラッジャー
・ ブラッスリー
・ ブラッスリー・リップ
・ ブラッズ
・ ブラッセル


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ブラッショー : ミニ英和和英辞書
ブラッショー[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ブラッショー ( リダイレクト:ブラショヴ ) : ウィキペディア日本語版
ブラショヴ[ちょうおん]

ブラショヴ( 、 ブラッショーザクセン語: 、 クローンシュタットクローンシュタット・イム・ブルツェンラントクローネン、中世ラテン語: ブラッソヴィアコロナ)はルーマニアのほぼ中央に位置する都市で、ブラショヴ県の県都。首都ブカレストからは直線で約140キロメートル(鉄道の路線距離だと166キロメートル)離れている。
日本ではブラショフという表記も見られるが、ルーマニア語はスラヴ語のように語末の v が無声化して になることはない。
カルパティア山脈によって囲まれるトランシルヴァニア地方の中心的都市の一つであり、都市の建設にはドイツからこの地に植民したトランシルヴァニア・ザクセン人が深く関わり、ザクセン人の居住する都市であった。このため、「クローンシュタット」というドイツ語名を持つ。これは英語で言うところの ''Crown City'' を意味し、中世ラテン語名の「コロナ」(''Corona'') と同じであり、市の紋章に反映されている。中世には、「ブラショヴ/ブラッソ」「クローンシュタット」「コロナ」の3つの都市名が同時に使われていた。
市では毎年、チェルブル・デ・アウル国際音楽祭が開催されている。
== 歴史 ==
現在ブラショヴがある土地にはハンガリー人の征服定住以前にはブルガリア人が居住しており、当時、すでに相当な規模の都市であったと考えられている。征服定住後、ハンガリー王国の初代国王イシュトヴァーン1世がツェンク山( 、、、、 トゥンパ)にブラッソヴィアという城塞を築かせた。この城塞は1211年にハンガリー王エンドレ2世によってドイツ騎士団に与えられた。
12世紀、ハンガリーゲーザ2世に招かれたトランシルヴァニア・ザクセン人たちは、鉱業と農業に従事して、町の発展に貢献した。移民は主にラインラントフランドルモゼル地域から来たが、その他テューリンゲンバイエルンワロニア、そしてフランスからもやって来た。文書におけるブラショヴへの最初の言及は1252年、''Terra Saxonum de Barasu''(「バラスのサクソン人の国」)の記述である。
1211年、ハンガリー王エンドレ2世の命令で、ドイツ騎士団がハンガリー国境を守るための要塞を(、 バルツァシャーグ、 ツァラ・ブルセイ)に築いた。騎士団は1225年に立ち退かせられたが、彼らが連れてきた入植者たちは、ブラショヴの3か所の移住地に残った。
ブラショヴのザクセン人たちは主に商売と手工業に長けていた。町がオスマン帝国と西欧とを結ぶ交易路上にあったことから、特権を授けられたザクセン人商人が商売の利益を蓄え裕福になり、政治力を持つようになっていった。財を成した彼らが市内に好みの建築物を造っていった。また、町の周辺には、中世の慣習により様々な職人たちのギルドによって維持されるいくつかの塔を含めた要塞が建築され、頻繁に拡大された。要塞の一部は最近、ユネスコの資金で復元されている。
一方で、ドイツの植民地であるクローンシュタットにおいて、ルーマニア人は市民とみなされていなかった。彼らは市内で商いをすることすら許されていなかった。また、ルーマニア人の信仰する正教会はトランシルヴァニア中で公式に認められていなかった。結果として彼らは羊飼いか密輸で生計をたてるようになった。
町の外のシュケイ( シュケイ、 シュケイィ・ブラショヴルイ、 ブルガリメァ、ザクセン語: ベルゲレイ、 オーベレ・フォーアシュタット、 ヴァラヒッシェ・フォアシュタット、 ボルガールセグ)と呼ばれる地区に住まわされたルーマニア人は、17世紀と19世紀には、国民的、政治的、文化的な権利のための運動をし、その努力は他の行政区のルーマニア人と地元のギリシアの貿易商の共同体によって支えられた。1838年には最初のルーマニア語の新聞、「ガゼッタ・トランシルヴァニエイ」(''Gazeta Transilvaniei'') が発行された。神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の時代に、10年間だけ、ようやくルーマニア人はクローンシュタット市民として認められた。
1918年にトランシルバニア全体がルーマニアに併合されるが、ザクセン人たちは新国家の中でもその地位を脅かされることはなかった。2つの大戦に挟まれた時代、ブラショヴは経済・文化の繁栄を迎えた。しかし第二次世界大戦後、多くのドイツ系市民はソビエト連邦によって追放され、彼らは共産主義体制のルーマニアから旧西ドイツへ移住していった。また、1940年には4000人を数えたユダヤ人は、戦後にイスラエルへ移住する者が多かったため減少し、現在230人ほどとなっている。
1950年から1960年までの一時期、町はソビエトの指導者ヨシフ・スターリンにちなんで、スターリン市( オラシュル・スタリン、 スタリンヴァーロシュ、 シュターリーンシュタット)と呼ばれていた〔Brasov - Travel To Romania 〕。
共産主義政権の期間には、工業の発展が非常に加速された。ニコラエ・チャウシェスク政権下の1987年、ブラショヴの労働者たちは共産政権に対し暴動を起こした。だがこれは当局によって弾圧され、多数の労働者が収監される結果に終わった。
また、1989年のルーマニア革命において、ブラショヴでは84人の死者、236人の負傷者を出した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ブラショヴ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.