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ヘンリー・オットー(, 1877年8月8日 - 1952年8月3日)は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、俳優、映画プロデューサーである〔Henry Otto, Internet Movie Database , 2010年4月16日閲覧。〕。ヘンリー・W・オットー()とも名乗った〔。ヘンリー・オットー(Henry Otho)〔, 2010年4月16日閲覧。〕とは別人。 == 人物・来歴 == ミズーリ州セントルイスに生まれる〔。 現存している記録で最初に映画史上に登場するのは、1911年、短篇映画を量産したセリグ・ポリスコープ・カンパニーでの脚本家としてのキャリアである〔。ジョゼフ・A・ゴールデンが監督する短篇映画の脚本を書き、1912年からはトム・リケッツの監督する短篇映画に出演している〔。同年には、 ''The Employer's Liability'' で監督業に進出し、出演もした〔。C・J・ウィリアムズ作品の脚本を書き、レム・B・パーカー、コリン・キャンベル、E・A・マーティン、フレッド・ハントリーらの作品に出演、自らも監督をした〔。 1914年、アメリカン・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニーに移籍して監督に専念、第1作は''This Is th' Life'' であった〔。1915年、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍、第1作は ''The Measure of Leon Du Bray'' であった〔。1916年、同社の子会社として設立された製作会社・ブルーバード映画で監督した『美人島』は、日本で最初に公開されたブルーバード映画であった〔『ブルーバード映画の記録』、製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.2.〕。同年、ユニヴァーサルを離れてヨーク・フィルム・カンパニーに移籍、第1作 ''The River of Romance'' はメトロ・ゴールドウィン・メイヤーが配給した〔。以降、多くインディペンデントの製作会社で監督、1924年(大正13年)に監督した『ダンテ地獄篇』が代表作とされる〔Henry Otto, allmovie, 2010年4月16日閲覧。〕。1930年代には俳優に戻っていった〔。 1952年8月3日、カリフォルニア州ロサンゼルス市で死去した〔。満74歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘンリー・オットー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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