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ヘンリー・ハレック : ミニ英和和英辞書
ヘンリー・ハレック[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヘンリー・ハレック : ウィキペディア日本語版
ヘンリー・ハレック[ちょうおん]

ヘンリー・ウェイガー・ハレック(Henry Wager Halleck、1815年1月16日-1872年1月9日)は、アメリカ陸軍の士官であり、学者、法律家である。軍事研究で著名な専門家であるハレックは、軽蔑的な「オールド・ブレインズ」(古い脳)という渾名で呼ばれた。カリフォルニア州の州昇格では中心人物となり、成功した法律家および土地開発者となった。南北戦争の初期、西部戦線北軍の上級指揮官となり、続いて全北軍の総司令官を約2年間務めた。西部戦線ではハレックの部下だったユリシーズ・グラント大将の戦場での勝利がハレックの経歴を上げることに貢献し、1864年から戦争の残り期間、グラントがハレックに代わって総司令官に就任したときは、ハレックが陸軍の参謀総長に「昇進」した。
ハレックは、戦闘の十分な準備と素早く攻撃的な行動に対する防御的要塞化の価値を強く信じる慎重な将軍だった。軍隊の階層の頂点にある者として管理、兵站および政治を知悉していたが、ワシントンD.C.での役職から野戦を効果的に統制することはほとんどできなかった。エイブラハム・リンカーン大統領はかってハレックのことを、「一級の事務官以上のものではない」と表現したことがあった〔Warner, pp. 195-97.〕。
== 初期の経歴 ==
ハレックはニューヨーク州オナイダ郡ウエスタンビルの農家で、ジョセフ・ハレックの14人の子供の内3人目として生まれた。父は米英戦争で中尉として従軍した。母はキャサリン・ウェイガー・ハレックだった。若いときのハレックは農業の人生という考えをひどく嫌い、早期に家を逃げ出してユーティカの叔父デイビッド・ウェイガーに育てられた〔Marszalek, pp. 6-8.〕。ハドソン・アカデミーとユニオン・カレッジで学び、続いて陸軍士官学校に入った。軍事理論家のデニス・ハート・マハンのお気に入りとなり、士官候補生のときに授業をすることを許された〔Fredriksen, pp. 908-11.〕。
1839年に、同期生31人のうち3番目で卒業し、工兵少尉となった〔Eicher, p. 274.〕。ワシントンD.Cの工兵局で助手として任官され〔Johnson, 20th Century Dictionary biography 〕、ニューヨーク港防衛度改善に数年間を過ごした後、合衆国上院に宛てて海岸防衛に関する報告書「国家防衛手段に関する報告書」を書き、このことがウィンフィールド・スコット将軍を喜ばせて、その褒美に1844年ヨーロッパに行かせて要塞やフランスの軍隊について研究させた〔Ambrose, p. 7.〕。
中尉として母国に戻ったハレックはボストンのローウェル・インスティチュートで12回シリーズの講義を行い、この内容を1846年に『軍事学と科学の要素』として出版した〔California State Military Museum 〕。
ハレックの著作は、アメリカ軍事専門家の初めての表現として、その仲間によく受け入れられ、来るべき南北戦争で士官達に使われる戦術を定義するものの一つと考えられた。その学術研究で後に(軽蔑的に)「オールド・ブレインズ」という渾名を貰うことになった〔。
米墨戦争のとき、ハレックはカリフォルニアでの任務を割り付けられた。ウィリアム・シャブリック海軍代将の副官として、ケープホーンを回ってUSSレキシントンを回航する7か月の旅の間に、アンリ・ジョミニの著作『ナポレオンの政治と軍事』を翻訳し、その学者としての評価を高めることになった。カリフォルニアでは要塞造りに数か月を費やし、続いて1847年11月11日、シャブリックがマサトラン港を占領したときに初めて戦闘に参加した。ハレックは占領した都市の副知事を務めた。このカリフォルニアとメキシコでの「勇敢で賞賛に値する執務」に対し1847年に大尉へ名誉昇進した。1853年7月1日には正規軍の大尉に昇進した〔。その後、北方に転出し、カリフォルニア準州の総督、バネット・ライリー将軍の下で仕え、間もなく州の軍事長官に指名され、その肩書きでカリフォルニア州憲法を起草するモントレー会議に出席し、憲法の主要な寄稿者の一人となった。カリフォルニア州軍事博物館には、ハレックが「会議に出席し、彼が他の誰よりも課題に対する学術的考え方を持っており、ライリー将軍が新憲法を形作ることを助けるよう指示したので、貴重な知能になった」と書かれている。ハレックは新しい州で2人のアメリカ合衆国上院議員の1人になるよう会議中に候補指名されたが、投票の結果は3位に甘んじた。その政治的活動の間に、サンフランシスコの法律会社ハレック・ピーチー・アンド・ビリングズに加わる時間ができ、これが大きく成功して、1854年には陸軍から退役した。翌年、アレクサンダー・ハミルトンの孫娘、エリザベス・ハミルトンと結婚した。1856年に一人息子、ヘンリー・ウェイガー・ハレック・ジュニアが生まれた〔。
ハレックは、法律家、土地投機家として富裕なものとなり、また「カリフォルニアーナ」の著名な収集家になった。カリフォルニアのスペイン宣教団と植民地化に関する公式資料を数千ページも集め、原本は1906年サンフランシスコ地震と大火で失われたが、写しがカリフォルニア大学のバンクロフト図書館に保存されている。サンフランシスコでは最初の耐火建築であるモンゴメリー・ブロックを建設し、弁護士、実業家、そして後には市のボヘミアン作家や新聞社の本拠となった。サンノゼのアルマデン・クイックシルバー水銀会社の取締役となり、アトランティック・アンド・パシフィック鉄道の社長、モントレーの建設者およびマリン郡のランチョ・ニカシオに3万エーカー (120 km2)の土地所有者となった。しかしハレックは軍事的な事項にも関わり続け、1860年までにカリフォルニア民兵隊の少将になった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘンリー・ハレック」の詳細全文を読む




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