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ヘンリー・パーセル : ミニ英和和英辞書
ヘンリー・パーセル[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヘンリー・パーセル : ウィキペディア日本語版
ヘンリー・パーセル[ちょうおん]

ヘンリー・パーセル:''Henry Purcell''、1659年9月10日? - 1695年11月21日)は、バロック時代におけるイングランド作曲家イタリアフランスの影響を受けつつ独自の音楽を生み出した、最も優秀なイギリス人の作曲家の1人として知られている。弟にダニエル・パーセルがいる。
36歳という短い生涯の間に彼が残した曲はおよそ400曲以上あるが、どれもエリザベス朝時代のイギリス音楽が持つ諸要素と彼が取り入れたイタリア・フランスの風が巧く融合し、自由奔放な彼独特の世界観を醸し出している。
== 生涯 ==

イングランド共和国ウェストミンスターに生まれる。少年期については資料が残されていないため、はっきりしないが、1667年前後(おそらく9歳か10歳の頃)に王室礼拝堂に付属する少年聖歌隊の一員となり、聖歌隊長のヘンリー・クック(''Henry Cooke'')とペラム・ハンフリー(''Pelham Humfrey'')から音楽の指導を受けたという。そこでは自国の作曲家の作品を学び、またハンフリーのフランスイタリアから影響を受けた音楽様式にパーセルは影響を与えたという。
1673年に15歳で変声期を迎えたため聖歌隊を退いて、同年6月に王室の楽器管理を担当していたジョン・ヒングストン(''John Hingeston'')の助手として1年間ほど務めた。翌1674年にはウェストミンスター寺院のオルガン調律師に任じられ、同時にオルガニストとして務めていたジョン・ブロウに師事している。また写譜係をしながら、ウィリアム・バードオーランド・ギボンズトマス・タリスなどの作曲家たちの作品の研究していたが、これらを通して古い音楽の伝統を身に着けていた。なお作曲はこの頃からしていたとされるが、初期の作品はほとんど紛失している(ごくわずかに残されている歌曲とアンセムはこの時期のもの)。
1677年マシュー・ロックが没し、わずか18歳のパーセルは彼の後任として王室の弦楽合奏隊の専属作曲家(兼指揮者)に就任する。この弦楽合奏隊はチャールズ2世が、フランスのルイ14世の「24のヴァイオリン(ヴァンカトル・ヴィオロン)」に倣って1660年の王政復古の後に宮廷に設置したもので、音楽を好んでいたチャールズ2世がパーセルの才能を見抜いて抜擢したとされる。1679年にはブロウの後任としてウェストミンスター寺院のオルガニストに任命され、年俸とともに家も貸与されるなど、音楽家としてのキャリアを本格的に始めた時期でもあった。
1680年、ロンドンに帰還したチャールズ2世のための祝賀音楽をはじめとする一連の歓迎歌やオードを作曲し、また同時に祝祭音楽や劇場で上演されるための付随音楽、宗教曲を含む合唱曲などの作曲を通して名声を高め、付随音楽『テオドシウス』(''Theodosius'',Z.626)などの最初の大作が生まれたのもこの時期であった。1682年、王室付属礼拝堂の3人のオルガン奏者の一人に選ばれ、1683年1月にはヒングストンの死に伴い後任として王室の楽器管理職に就任するなど要職を兼務し、彼の名声はさらに高まっていき、多忙ながらも充実な生活を送っていた。この年に出版された作品には、12曲からなる「ファンタジア」と題されたヴィオールのためのトリオ・ソナタや鍵盤楽曲(主にハープシコード)『音楽のはしため』などがある。
1689年、バロック期のオペラの最高傑作のとして位置づけられるオペラディドとエネアス』(''Dido and Aeneas'',Z.626)が12月にロンドンにて初演され、限られた手法で劇的な効果を上げたものにしている。1690年以降は一連の舞台作品(主にオペラと付随音楽)の創作に力を注ぎ、オペラ『アーサー王』(1691年)、『妖精の女王』(1695年)、『アブデラザール』(1695年)など40曲以上を手がけている。
1695年11月21日、36歳の若さでこの世を去る。師のブロウはその死を悼んで『ヘンリー・パーセルの死に寄せる頌歌』を作曲し、パーセルが務めていた宮廷の楽器管理の後を継いでいる。彼の亡骸は職場であったウェストミンスター寺院に眠っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘンリー・パーセル」の詳細全文を読む




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