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ヘンリー・小谷(へんりー・こたに、本名・小谷倉市、1887年4月25日-1972年4月8日)は、大正・昭和期の映画監督。日本映画初期に、アメリカから最新技術を紹介、実践し、開拓者・指導者としても大きな役割を果たした〔『日本映画テレビ監督全集』、516頁〕〔『日本映画史発掘』144-162、201頁〕〔『シネマがやってきた!―日本映画事始め』207-251頁〕〔『カメラマンの映画史 碧川道夫の歩んだ道』、22-65頁〕〔The National Museum of Modern Art, Tokyo 、フィルムは記録する'97 : 日本の文化・記録映画作家たち 〕〔邱淑婷『香港・日本映画交流史 アジア映画ネットワークのルーツを探る』東京大学出版会、2007年、12-13頁〕。 == 略歴・人物 == === 生い立ち === 広島県仁保島村(現広島市南区仁保町)生まれ〔『日本の映画人-日本映画の創造者たち-』、243-244頁〕〔『広島県大百科事典』<上巻>548頁〕〔『かりそめの恋にさえ -女優・川田芳子の生涯』、61-62頁〕。幼少時に両親とアメリカへ渡り、ハワイ、サンフランシスコと移住〔『人物・松竹映画史 蒲田の時代』34-51頁〕。ハイスクール卒業後、「オークランド・ヒルズ・カレッジ」に入るが1911年中退。ハイスクール在学中の1907年からサンフランシスコの「アルカザー劇場」で働き、1913年に「トマス・H・インス撮影所」へ入り『火の海(神々の怒り)』(1914年、レジナルド・バーカー監督)など俳優として映画、舞台に出演する〔MoMAK Films: 映画とジャポニスム――早川雪洲特集 | 京都国立近代美術館 〕。ここには青木鶴子、トーマス・栗原、早川雪洲もいた〔『シネマがやってきた!―日本映画事始め』207-251頁〕。1917年、「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー(後のパラマウント)撮影所」に移りカメラマンとなる〔『日本映画は生きている 第1巻』210-226頁〕。カメラマンになる前は葡萄ちぎりの職に付いていたと書かれた文献もある〔川谷庄平著、山口猛(構成)『魔都を駆け抜けた男 私のキャメラマン人生』三一書房、1995年、254-263頁〕。同年、セシル・B・デミル監督『ヂャンヌ・ダーク』でアルビン・ワイコフの撮影助手、1923年の『十誡』でも撮影助手を務め、史上初めて斜めパンをやったデミルの仕事でヘンリーが、右手でクランク、左手でパニング、残るは三脚の一本に脚をかけてキャメラを持ち上げたという。1918年のジョージ・メルフォード監督『隠された真珠』でポール・ケリーの撮影助手を務めたといわれる〔。また在米中には『哀愁』や『心の旅路』などで知られる名匠・マーヴィン・ルロイやジェームズ・ウォン・ハウなども指導している〔〔。ウォン・ハウは「小谷から撮影の全てを学んだ」と話している〔『日本の個人映画作家 2 大林宣彦』映像文化罪保護委員会、1975年、97-98、112頁〕。当時のアメリカは激しい排日運動が起きていた時代。早川雪州のような俳優は、キャスティングの必要性と運があって活躍できたが、演出、撮影の人たちは組合があるため簡単には入り込めず、そこから這い上がるのは容易でなかった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘンリー・小谷」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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