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ベルナボ・ヴィスコンティ(Bernabò Visconti, 1323年 ミラノ - 1385年12月18日 トレッツォ・スッラッダ)は、イタリア・ミラノの僭主(在位1349年 - 1385年)。2人の兄マッテーオ2世およびガレアッツォ2世と共同統治を行った。 == 生涯 == ミラノ僭主ステーファノ・ヴィスコンティとその妻のヴァレンティーナ・ドーリア(1290年 - 1358年)の間の三男として生まれた。1346年、伯父のルキーノ1世と対立して国外に逃れたが、1349年にルキーノ1世が死ぬと別の叔父である枢機卿ジョヴァンニによって兄たちと一緒にミラノに呼び戻され、共同でミラノの僭主となる。1354年に叔父のジョヴァンニが死ぬと兄2人と一緒に親政を開始し、ベルナボは家領のうち、妻の実家ヴェローナに近接する東部地域(ベルガモ、ブレシア、クレモナ、クレーマなど)を治めることになった。長兄のマッテーオ2世は自堕落で君主として不適格であり、ベルナボは1355年に次兄ガレアッツォ2世と謀ってマッテーオを毒殺、その所領をガレアッツォと折半した。 1356年、神聖ローマ皇帝カール4世と敵対し、皇帝の代理として攻め込んできたアクイレイア総大司教マルクヴァルト・フォン・ランデックを生け捕りにした。1360年、ベルナボは教皇インノケンティウス6世によって異端の信者だと告発され、皇帝カール4世もこれに同調してベルナボを罪人とした。皇帝側との争いは、1361年7月29日に皇帝側のリミニ領主ガレアッツォ1世・マラテスタにサン・ルフィロ(San Ruffillo)で惨敗したことで終わった。 1362年、姪の夫ウゴリーノ・ゴンザーガ(Ugolino Gonzaga)の死を契機として、マントヴァのゴンザーガ家を攻撃した。ベルナボは複数の敵を相手にしたため、1362年12月、フランス王ジャン2世の仲介で、新教皇ウルバヌス5世と和睦した。この和睦の内容はベルナボが占拠したボローニャを教皇領に返還すること、アヴィニョンの教皇宮殿を訪れて恭順の意を示すことなどだったが、ベルナボはいずれも無視した。このため1363年3月4日、ウルバヌス5世はベルナボに2度目となる破門宣告を出し、またも戦闘状態となった。ベルナボの庶長子アンブロージョは、教皇軍の司令官ヒル・アルバレス・デ・アルボルノスに捕えられた。1364年3月13日に教皇側との再度の和睦が成立し、ベルナボはボローニャを教皇軍に明け渡し、50万フローリンの賠償金を支払って破門を解いてもらった。 1368年の春、ベルナボは義弟のヴェローナ僭主カンシニョーリオと共同で、再度マントヴァを攻撃した。1371年、ベルナボはマントヴァ側に占拠したレッジョ・エミリアの領有を認めさせた。続いてフェラーラとモデナを治めるエステ家に攻撃を仕掛けたことで、教皇グレゴリウス11世の怒りを買った。1373年、ベルナボと兄ガレアッツォに対する教皇の破門宣告がまたも出された。ベルナボは1378年、ヴェネツィア共和国と同盟を結んでジェノヴァ共和国を攻めてキオッジャ戦争を引き起こすが、1379年9月にヴァル・ビサーニョ(Val Bisagno)で敵軍に敗れた。 ベルナボはトレッツォ・スッラッダにトレッツォ橋を建設させたり、ミラノでのペストの蔓延を精力的に防いだ〔Rosemary Horrox, ''The Black Death''(1994) III.65, p 203.〕。しかしベルナボの専制統治と重税は多くの領民の怨嗟の的となっており、彼は1385年に甥で娘婿のジャン・ガレアッツォによって廃位された。そしてトレッツォ・スッラッダの城に閉じ込められ、同年12月に毒殺された。その末路はジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』「修道僧の話」において、暴君必滅の典型例として紹介されている〔チョーサーは1378年、イングランド王リチャード2世の命令を受け、百年戦争にイングランド側について参戦するようベルナボを説得する外交任務を遂行すべく、ミラノを訪れている。〕。 死後、ベルナボの墓を飾る彫像として、彫刻家ボニーノ・ダ・カンピオーネの手になる騎馬像が制作された。騎馬像は当初、ベルナボの墓があるサン・ジョヴァンニ・イン・コルカ地下聖堂(Cripta di San Giovanni in Conca)に置かれていたが、現在はスフォルツェスコ城にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ベルナボ・ヴィスコンティ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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