|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ベレンガリア・オブ・ナヴァール(Berengaria of Navarre, 1165/1170年頃 - 1230年12月23日)は、イングランド王リチャード1世の王妃。ナバラ王サンチョ6世(賢王)の娘。 1191年3月、リチャードは長年の婚約者であったフランス王フィリップ2世の姉アリスとの婚約を破棄し、ナバラ王女ベレンガリアとの婚約を発表した。ベレンガリアの父サンチョ6世は、1172年にフランスのリモージュを訪問した際、リチャードの母アリエノール・ダキテーヌのポワティエの宮廷で歓待を受けたことがあり、交流があった。リチャードとベレンガリアのなれそめについては、リチャードが即位する以前にポワティエ伯であった頃、パンプローナで開催されたベレンガリアの兄サンチョ主催の馬上槍試合で彼女をみそめ、のちに詩も贈っていたという話がある。1191年5月12日にキプロスで結婚した。 その後、王の転戦に伴いアッコ、シチリア、ローマ、ピサ、ジェノヴァ、マルセイユ、ポワトゥーとへと移り、夫の幽閉中はポワトゥーにいた。 王の戦傷死後、ナバラには戻らず再婚もせず、ポワティエからル・マンに移ったが、リチャードの後を継いだ義弟のジョン王は当初ベレンガリアに寡婦年金を送ってこず、教皇や司教たちが仲立ちをした。しかし以降も送金は途絶えがちであり、ジョンの息子のヘンリー3世の時代になると、ベレンガリアは妹のシャンパーニュ伯妃ブランカ(後にナバラ王となるシャンパーニュ伯ティボー4世の母)のもとに身を寄せ生活した。その後、ついに送られてきた年金をもとにシトー修道会の尼僧院を建て、信仰生活に入った。一度もイングランドの土を踏まなかった。 == 関連資料 == * レジーヌ・ペルヌー 『王妃アリエノール・ダキテーヌ』 福本秀子訳、パピルス、1996年、ISBN 4-938165-17-1 * 石井美樹子 『イギリス 王妃たちの物語』 朝日新聞社、1997年、ISBN 4-02-257169-1 category:イングランドの王妃 category:1230年没 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ベレンガリア・オブ・ナヴァール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|