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ペノブスコット遠征(ペノブスコットえんせい、)は、アメリカ独立戦争の1779年7月24日から8月12日まで、当時イギリス軍に占領されていたメイン地区を取り返すために派遣されたアメリカ海軍の遠征である。この戦争ではアメリカ海軍最大の遠征であり、最大の敗北となった〔Bicheno, p.149〕。戦闘は現在のメイン州カスティーンの陸上と海上で行われた。 1779年6月、イギリス陸軍部隊がペノブスコット湾のマジャビッグワデュース半島の砦を中心とする一連の砦を建設した。その目的はそこの海岸部に軍隊の基地を設立し、ニューアイルランドとよぶ新しい植民地を建設することだった。これに反応したマサチューセッツ湾植民地は大陸会議から幾らかの支援を得て、イギリス軍を追い出すための遠征隊を編成した。 アメリカ軍は7月下旬に部隊を上陸させ、イギリス軍の砦に包囲戦を布こうとしたが、遠征の指揮官であるダドリー・ソルトンストールとソロモン・ラベルの間に指揮について意見の不一致があり、うまくいかなかった。8月13日にイギリス海軍ジョージ・コリアの指揮する艦隊が現れ、アメリカ艦隊はペノブスコット川で全艦自壊するという悲惨な結末になった。遠征隊の生き残った者達は、食料や装備も乏しいまま、マサチューセッツの人家がある所まで陸路退却を余儀なくされた。 == 背景 == イギリス軍は1777年8月にメインのマチャイアスを襲った後、10月にジョン・バーゴイン将軍がサラトガ方面作戦で大きな失敗を犯した。イギリス軍の作戦本部は反乱の起きているニューイングランドの支配を取り戻すために別の道を探ったが、1778年末からは南部の植民地に北アメリカイギリス軍の主力を向けるようになっていた。戦争遂行を任された植民地担当大臣のジョージ・ジャーメインと、その政務次官であるウィリアム・ノックスは、当時マサチューセッツ湾植民地の一部だったメイン地区海岸に拠点を設立することを望み、それでノバスコシアの船舶や町を、アメリカの私掠船や襲撃者から守るために使うことができると考えた〔Buker, pp. 4–5〕。 1777年のマチャイアスに対するジョージ・コリアの遠征で水先案内を務めたロイヤリスト、ジョン・ナッティングが、メイン地区にイギリス軍の基地を築くというアイディアを持ってロンドンに到着した。1778年9月、ナッティングは北アメリカイギリス軍総司令官ヘンリー・クリントン中将への命令書を持ってニューヨーク市に向かった。その命令はペノブスコット川とセントクロワ川の間に植民地を作り、ペノブスコット川沿いに基地を設けるのを支援することとなっていた〔Buker, p. 5〕。この植民地をニューアイルランドと名付けたのはノックスのアイディアだった〔。しかし、ナッティングの乗った船はアメリカの私掠船に捕まえられ、ナッティングは命令書を捨ててしまわざるを得なくなったので、1778年にそのアイディアを実行することはできなくなった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ペノブスコット遠征」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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