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『ポリウト』(''Poliuto'' )は、ガエターノ・ドニゼッティが作曲した全3幕からなるオペラである。フランス語による4幕物の改訂版『殉教者』(''Les Martyrs'' )として1840年にパリで初演され、『ポリウト』としての初演は作曲者の没後1848年にナポリで行われた。その経緯については下記参照。以下本項では特に断りのない限り『ポリウト』について述べる。 *原語曲名:''Poliuto'' *台本:サルヴァトーレ・カンマラーノ。コルネイユの戯曲「ポリュークト」(''Polyeucte'' )を題材にとる。 *演奏時間:約1時間50分 *初演:1848年11月30日、ナポリのサン・カルロ劇場にて == 作曲の経緯 == 1838年1月、ヴェネツィアに傷心のテノール、アドルフ・ヌーリが現れた。彼はパリ・オペラ座で1821年以来の花形テノールであり、ロッシーニ『ウィリアム・テル』の初演(1829年)で成功するなど活躍していたが、イタリア帰りの新進テノール、ジルベール・デュプレがファルセット唱法を用いない革命的な高音歌唱法「胸声のド」(イタリア語:''do di petto'', フランス語:''contre-ut de poitrine'' )を披露して大反響を巻き起こして以来、スターの座を追われたのだった。デュプレの学んだイタリアの地で、ヌーリは挽回を果たそうとしていた。 ドニゼッティはヴェネツィアでヌーリに出会い、彼がナポリで「胸声のド」を修得できるよう手助けをし、新作オペラの主役を与えることを約束した。知性・教養に優れたヌーリはドニゼッティに、コメディ・フランセーズのレパートリーだったコルネイユの悲劇『ポリュークト』のオペラ化を提案、サン・カルロ劇場の座付作家カンマラーノに台本を作成させた。同年7月頃には作曲もほぼ完成(同月11日付のドニゼッティの書簡による)、ヌーリらによるリハーサルも開始されたが、8月12日、両シチリア国王フェルディナンド2世は突然、同オペラの上演禁止を命令する。殉教者をオペラで描くことはキリスト教に対する冒涜である、というのがその理由だった。再起を期した新作オペラの中止に絶望したヌーリは翌1839年3月8日、ナポリのホテルの窓から投身自殺した。 一方、新作発表の機会を求めてドニゼッティはパリに移動する。台本作家スクリーブによるフランス語化、および演劇『ポリュークト』により忠実な筋書とするような改変が行われ、またいわゆる「グランド・オペラ化」(バレエや大規模な合唱シーンなどの導入)が行われて、このオペラは1840年4月10日、パリ・オペラ座で『殉教者』(''Les Martyrs'' )として初演された。その主役は皮肉なことにヌーリのライヴァル、デュプレだった。 上演が禁じられたイタリア語版『ポリウト』は、ドニゼッティの死後半年ほど経った1848年11月30日、ナポリで初演をみたが、『殉教者』のために付加された曲が部分的に逆利用されるなどあり、ヌーリが初演を夢見た形態とは若干の相違がある。現在上演されるのもほとんどがこの「折衷版」ともいえる3幕版『ポリウト』である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポリウト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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