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MASADA MAZADA
マサダ(、)は第一次ユダヤ戦争の遺跡で、イスラエル東部、死海西岸近くにある岩山の上の要塞跡。「マサダ」とはヘブライ語で「要塞」を意味する。 ユダヤ戦争末期、ローマ軍の包囲に対し籠城したユダヤ人集団が2年にわたり抵抗し、集団自決で幕をおろした戦いの古戦場として知られる。 == 歴史 == 紀元前120年頃、切り立った岩山の上に要塞が建設され、後にヘロデ大王が離宮兼要塞として改修した。山頂へは「蛇の道」と呼ばれる細い登山道が一本あるのみ、周囲は切り立った崖で、難攻不落と言われた。 マサダの戦闘は、ユダヤ戦記により現代に伝えられている。66年にローマ帝国との戦争が始まり(ユダヤ戦争)、70年のティトゥス率いるローマ軍によってエルサレムが陥落した(エルサレム攻囲戦)後、熱心党員を中心としたユダヤ人避難民967人がエルアザル・ベン・ヤイルに率いられてマサダに立て籠もる。籠城側は兵士のみではなく、女性や子供たちも含まれていた。 1万5千のローマ軍団が周囲を包囲したが、さすがのローマ軍も、攻撃軍を寄せ付けないマサダの峻厳な地形に攻めあぐねる。やがてローマ軍はイスラエルの捕虜と奴隷を大量動員して土を運び、山の西側の崖をそっくり埋めて、突入口の建設を開始する。ユダヤ側は執拗に防戦したが、二年がかりで山腹は着実に埋められ、やがて陥落は目前となった。敗北が確実となったある日、指導者たちは集まって、今後の方針を協議した。抵抗を続ければ全員が殺され、降伏すれば全員が奴隷となるのが当時の習慣であった。 73年、ローマ軍部隊は完成した侵入路を通り城内に突入する。ローマ兵は死にもの狂いの抵抗を予想していたが、意外にも防戦する者は1人もいなかった。突入の前夜に、奴隷となるより死をと、籠城ユダヤ人は全員が集団自決していたのであった。ユダヤ戦記は、穴に隠れていた2人の女と5人の子供だけが生きのびたと伝える。陥落後のマサダはローマ軍により徹底破壊され、長い間その所在が分からなくなっていたが、1838年にドイツ人考古学者によって所在が確認された。 ユダヤ戦争はマサダ陥落によって終結したが、マサダは現代ユダヤ人にとっても民族の聖地となっている。イスラエル国防軍はマサダで軍将校団の入隊宣誓式を実施し、イスラエル軍士官学校の卒業生は山頂で「マサダは再び陥落せず」と唱え、民族滅亡の悲劇を再び繰り返さぬことを誓う。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マサダ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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