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マスクド・グラップラー : ミニ英和和英辞書
マスクド・グラップラー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マスクド・グラップラー ( リダイレクト:カウボーイ・ボブ・エリス ) : ウィキペディア日本語版
カウボーイ・ボブ・エリス[ちょうおん]

カウボーイ・ボブ・エリスCowboy Bob Ellis、本名:Robert Ellis1929年3月15日〔 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーテキサス州サンアンジェロ出身。生年は1932年ともされる〔。
1960年代を全盛期に、カウボーイギミックベビーフェイスとして活躍。俳優のロック・ハドソンにも似たハンサムな容貌で女性ファンの声援を集めた〔〔『世界名レスラー100人伝説!!』P64-65(2003年、日本スポーツ出版社、監修:竹内宏介)〕。
カウボーイ・レスラーの定番ムーブであるブルドッギング・ヘッドロックの元祖として知られる〔〔。
== 来歴 ==
地元テキサスの牧場で実際のカウボーイとして育ち〔、学生時代はロデオアメリカンフットボールで活躍〔(テキサス州のロデオ大会に14歳で優勝したことがあるという〔)。カレッジを出ると朝鮮戦争に3年間従軍し、空挺兵として陸軍落下傘部隊に所属〔、戦線では53回におよぶ敵地降下の記録を残したという〔。除隊後、NFLフィラデルフィア・イーグルスでプレイするチャンスを得たが、収入面での不満から短期間で退団し〔、ボディビルで体をつくり上げ1955年にプロレスラーとしてデビュー〔。
当時はニューメキシコにてボブ・エリオット(''Bob Elliott'')のリングネームで活動していたが、プロモーターの要請でカウボーイギミックを用いることになり、"カウボーイ" ボブ・エリス(''"Cowboy" Bob Ellis'')に改名〔。1958年11月28日にはNWAセントラル・ステーツ地区にて、ボブ・ガイゲルからNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を奪取、初戴冠を果たす。1960年は、当時アメリカン・レスリング・アライアンスのテリトリーだったデトロイトにて6月2日にディック・ザ・ブルーザー、同じくサンフランシスコにて11月11日にレイ・スティーブンスを破り、各地区認定のUSヘビー級王座を獲得した。
以降、1960年代全般にかけてベビーフェイスのスターとなって活躍。セントルイスオハイオフロリダロサンゼルスカナダカルガリーから地元のテキサスまで各地において、フリッツ・フォン・エリックジン・キニスキーキラー・カール・コックスフレッド・ブラッシーザ・シークドクター・ビル・ミラーバディ・オースチンキラー・コワルスキーといった大物ヒールと対戦した。なかでも最大の宿敵とされるディック・ザ・ブルーザーとの流血の抗争劇は、中西部から深南部西海岸にいたるまで、全米規模でマッチメイクされた〔。
ヒール王者バディ・ロジャースNWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦しており、1962年ニューヨークのキャピトル・レスリング・コーポレーション(後のWWWF、現在のWWE)において、3月19日、5月25日、6月22日とマディソン・スクエア・ガーデンのリングで連続挑戦。フェイスターンしていたジョニー・バレンタインともタッグを組み、1962年1月11日にファビュラス・カンガルーズアル・コステロ&ロイ・ヘファーナンからUSタッグ王座を奪取、7月5日にロジャース&ジョニー・バレンドに敗れるまで半年間保持した。当時のニューヨークでは、アメリカ修行時代のショーヘイ・ババことジャイアント馬場とも対戦している〔『Gスピリッツ Vol.12』P95「ショーヘイ・ババのアメリカ武者修行/試合記録」(2009年、辰巳出版、ISBN 4777806847)〕。翌1963年4月に日本プロレスに初来日し、力道山が参加した最後のワールド・リーグ戦(第5回大会)に出場、凱旋帰国した馬場とも再び相まみえた〔。
1964年9月10日、ロサンゼルスのWWAにおいて、ザ・デストロイヤーを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得。タイトルは2カ月後にデストロイヤーに奪還されるが、12月9日にはエドワード・カーペンティアと組んでデストロイヤー&ハードボイルド・ハガティから同タッグ王座も奪取した。その後、ネブラスカ州オマハAWAミッドウエスト地区を経て、1960年代末はオーストラリアに遠征し、1969年2月7日にスカル・マーフィーから豪州版のIWA世界ヘビー級王座を奪取している。
1970年は再びニューヨークに登場し、WWWFのマットでコワルスキー、ワルドー・フォン・エリックプロフェッサー・タナカバロン・シクルナなどと対戦。1971年9月には日本プロレスへの8年ぶりの再来日が実現、フランキー・レインとのコンビでNWAタッグ・リーグ戦の第2回大会に出場したが、典型的なベビーフェイスのプロレスラーだったエリスは日本では真価を発揮することができず、2度の日本プロレス参戦はいずれも期待外れの結果に終わっている〔『Gスピリッツ Vol.18』P92-93「カンジ・イノキのアメリカ武者修行」(2010年、辰巳出版、ISBN 4777808661)〕。
その後、アメリカではディック・ザ・ブルーザーが主宰していたインディアナポリスWWAを主戦場に活動。フェイスターンした旧敵ブルーザーとタッグを結成し、ザ・ブラックジャックスバリアント・ブラザーズと抗争を展開した〔。1973年3月31日にはバロン・フォン・ラシクを破ってインディアナポリス版のWWA世界ヘビー級王座を獲得。以降も翌1974年にかけて、アーニー・ラッドオックス・ベーカーとタイトルを争った。
1975年NWFの残党が参画していたアメリカ北東部の新団体IWAに出場し、因縁のラッドをはじめ、イワン・コロフブルドッグ・ブラワーザ・モンゴルズなどと対戦。その後、1970年代後半はプエルトリコWWCアマリロNWAウエスタン・ステーツ地区テネシーNWAミッドアメリカ地区などのローカル・テリトリーを転戦した。
1977年9月、覆面レスラーマスクド・グラップラー(''The Masked Grappler'')に変身して国際プロレスに来日。しかし、正体が不明としてタイトルへの挑戦資格が疑問視されていたことから、開幕戦のリングで試合前に自ら覆面を脱いでその正体をアピール〔。同時参加していたもう一人の外国人エースであるアレックス・スミルノフを凌駕するキャリアと実績から、シングルとタッグの両IWA世界王座への挑戦を国際プロレスに受諾させ、グレート草津&アニマル浜口IWA世界タッグ王座にはザ・キラーと組んで9月28日に沼津にて、ラッシャー木村IWA世界ヘビー級王座には翌29日に川崎市体育館にてそれぞれ挑戦している〔『忘れじの国際プロレス』P101、P103(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)〕。この来日時、エリスは薄くなっていた髪を剃ってスキンヘッドにしており、試合内容も狂乱ファイトを主体とするヒールに変身。外見もキャラクターも、かつてとは大きく異なる変貌ぶりを見せた〔。
しかし、すでにキャリア晩年であったことから以降はセミリタイアの状態となり、フリッツ・フォン・エリックの縁故でダラスのNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)に1978年まで単発的に出場、ブル・ラモスキラー・カール・クラップ、オックス・ベーカー、キラー・ブルックスタリー・ブランチャードジノ・ヘルナンデスダッチ・マンテルなどと対戦した。
引退後の1983年、競馬の不正事件に関わった容疑で連邦大陪審に起訴されて以来、消息不明となっていたが、2011年12月、ブラックジャック・マリガンがファンに提供した情報により、健在であることが確認された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カウボーイ・ボブ・エリス」の詳細全文を読む




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