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マダガスカル料理 : ミニ英和和英辞書
マダガスカル料理[り]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [りょう]
  1. (n,n-suf) material 2. charge 3. rate 4. fee 
料理 : [りょうり]
  1. (n,vs) cooking 2. cookery 3. cuisine 
: [り]
 【名詞】 1. reason 

マダガスカル料理 : ウィキペディア日本語版
マダガスカル料理[り]

マダガスカル料理又はマラガシ料理とは、インド洋に浮かぶ島、マダガスカルに伝わる多様な料理伝統・食文化を指す。マダガスカルで食される食品は、東南アジアアフリカインド中国及びヨーロッパといった多様な地域から同島へ移住が行われてきたという歴史を反映している。なお、同島の最初の移住者は、紀元1世紀から5世紀の間にボルネオ島から海を越えてやってきた航海者たちであったと考えられている。マダガスカルの食文化において基本をなすコメは、これら最初の居住者らにって、根茎類など他の東南アジアの作物とともに栽培された。また、作物栽培を補うかたちで野生生物の狩猟がおこなわれたが、そのことは、同島の一部の鳥類や大型哺乳動物が絶滅するきっかけを作った。これら食料源の欠けたところは、紀元1000年ごろに移入してきた東アフリカの人々によって導入されたコブウシの肉で、のちに補完されることとなった。インド洋を媒介にしたアラブやインドの商人との交易、さらには大西洋を越えたヨーロッパ人との交易により、新しいフルーツ野菜香辛料が紹介され、マダガスカルの料理伝統は豊かなものとなっていった。
米飯をベースにして、付け合わせが何かがつくというのが現在のマダガスカル料理の典型であり、それは島のほぼ全域に共通して言える。公的に「標準」とされるマダガスカル語(メリナ方言)では、米飯を「ヴァリ(''vary'' )」、付け合わせを「ラウカ(又はロカ、''laoka'' )」と呼ぶ。ラウカにはさまざまな種類があり、野菜のみの場合もあれば、動物性たんぱく質を含む場合もある。典型的にはショウガタマネギニンニクトマト、ヴァニラ、カレー粉などを材料にしたソースにより味付けされる。あまり一般的ではないが他のスパイスやハーブによる味付けもある。南部や西部の降雨が少ない地域においては、米飯の代わりにトウモロコシキャッサバコブウシの乳を発酵させた凝乳を用いる牧畜民もいる。甘く香りのよい各種のフリッターなどの屋台料理、そして熱帯・温帯のフルーツは島のどこでも食べられる。地元産の飲み物としては、フルーツジュースコーヒーハーブティーがあり、ラム酒ブドウ酒ビールと言ったアルコール飲料もある。
21世紀現在のマダガスカルで食されている料理の幅広さからは、同島のユニークな歴史と、こんにち同島に居住する人々の文化の多様性をうかがい知ることができる。また、マダガスカル料理は、複雑さといった観点からは、最初期の移住民が同島に持ち込んだ簡素な食事から、19世紀の王政期、祭礼の際に調理されたような洗練された料理の数々に至るまで、幅広い。前述の米飯と付け合わせという昔ながらのスタイルはいまでも優勢ではあるが、過去100年以上にわたって、それとは異なる種類の食材、食材の組み合わせが、フランス人入植者華僑印僑により紹介され、普及するようになった。その結果、マダガスカル料理は、伝統的ではあるけれども、それと同時に、新しく現れた食文化を消化吸収するただなかにあるとも言える。
== 歴史 ==

=== 1650年以前 ===

オーストロネシア人の航海者たちが紀元100年から500年の間にマダガスカル島にたどり着き、同島への最初の移住者になったと考えられている〔Gade (1996), p. 105〕。彼らは、乗ってきたアウトリガー・カヌーに、イネプランテンタロイモウォーターヤムといった栽培作物を載せて、運んでいた〔Blench (1996), pp. 420–426〕。サトウキビショウガサツマイモブタニワトリ、そのほかにココヤシバナナも彼らによって運ばれていた可能性がある〔Blench (1996), pp. 420–426〕。マダガスカル島北部には最初に人類が住んだ形跡があるが、稠密な人口をもった集落が最初に現れたのは、島の南東部の海岸沿いの地域である〔Campbell (1993), pp. 113–114〕。初期の移住者らは、島への定住後間もなく、焼畑(現代マダガスカル語ではタヴィ( tavy )と呼び、21世紀現在でも実際に行っている地域もある。)を行い、作物を植えるために沿岸部の熱帯雨林を焼き払った。彼らはまた、ハチミツ、フルーツ、鳥やワニの卵、キノコ、食べられる木の実や根などを採取し、ハチミツやサトウキビを絞った汁を醸して酒を作った〔Sibree (1896), p. 333〕。
熱帯雨林の中にいたカエルヘビトカゲハリネズミテンレックリクガメイノシシ昆虫イモムシ、鳥類、レミュールなどは、常時、狩猟や罠猟の対象となった〔Stiles, D. (1991). 〕。また、最初の移住者らは、マダガスカルに豊かに残されていた、エピオルニスなど、大型動物の数々に遭遇した。彼らはエピオルニスの卵を食べていたと想像される。また、場合によってはその肉も食べていた可能性がある。エピオルニスはマダガスカル島全域に棲んでいた世界最大の鳥であったが、17世紀に絶滅した〔Presenter: David Attenborough; Director: Sally Thomson; Producer: Sally Thomson; Executive Producer: Michael Gunton (March 2, 2011). 〕。マダガスカルの大型動物が次第に減少し、最終的には絶滅したことについて、いくつかの説明が与えられているが、焼畑による野生生物の生息域の破壊がキーファクターとなったことは、明らかな証拠がある〔Virah-Sawmy, M.; Willis, K.J.; Gillson, L. (2010). 〕〔Perez, V.R.; Godfrey, L.R.; Nowak-Kemp, M.; Burney, D.A.; Ratsimbazafy, J.; Vasey, N. (2005). 〕。絶滅をまぬがれたレミュールの残存種を狩ること、また、取引することはすべて、1964年から法律で禁止された。しかしながら、地方農村での消費のため、もしくは、都会のレストランでのエキゾチックなブッシュ・ミートに対する需要に応えるために、これら絶滅の危機に瀕する動物たちへの狩りは今も続いている〔Butler, Rhett (July 17, 2005). 〕。
原生林がタヴィ(焼畑)により失われたため、村落社会は、栽培と農耕を行う土地を少しずつ増やしていった〔Olson, S. (1984). 〕。上述の最初の定住者らは、600年頃までには内陸へ移動し、中央高地の森林を開拓し始めた。イネは陸稲水稲があるが、品種改良されていないままであると収量が少ない。水田耕作は1600年頃に、ベツィレウ人の国(フィアナランツア州北部)で始まり、のちにメリナ人の国(アンタナナリヴ州あたり)でも始まった〔Campbell (1993), p. 116〕。17世紀の100年間でマダガスカル中部に広がった水田耕作は、この地にあった原生林を大規模に消滅させることとなった〔Campbell (1993), p. 116〕。その結果、中央高地には集落が点在し、それを囲む水田があり、集落から歩いて一日の距離に野菜や果実の農地、さらにその周りを広大な不毛の草原が広がるという景観が発達した〔Gade (1996), p. 105〕。
コブウシ(ゼブ牛)は、東アフリカから1000年頃に移住してきた人々によって伝えられた。彼らはコブウシだけでなく、ソルガムヤギ、そしておそらくは、バンバラマメなどももたらした。これらの家畜は東アフリカにおいて富を象徴するもの、ないし、富そのものであり、マダガスカルにおいてもそのように考えられた。そのため、めったに食用にされることがなく、葬儀など重要な儀式において犠牲として捧げられたのちに食べられた〔Gade (1996), p. 105〕。新鮮なコブウシの乳か、もしくはそれから作られた凝乳(カード)は、牧畜民の食文化の重要な一部分をなした〔Linton (1928), p. 386〕。コブウシは、南部と西部で大規模な群れで飼育されていたが、群れから逃げ出した個体が自然繁殖して、中央高地にはかなりの数の野生のコブウシがいた。これらについてメリナ人の歴史の語り部は、「かつて中央高地の人々は野良牛の肉が食べられるものだということを知らなかったが、メリナ王ラランブ(在位:1575-1612)がそのことに気付き、皆に教えた。以降、メリナの人々は野良牛の肉を食べるようになった」という歴史を伝える。しかしながら、考古学的調査によれば、この地方ではラランブ王時代よりも前から、コブウシに対する狩りが時おり行われており、食べられてもいた痕跡があることがわかった。むしろこの時代に、はじめて、野生のコブウシの群れの家畜化が始まり、柵に入れて飼われるようになったという可能性の方が高い。そして、この時代は、中央高地に複雑な構造を持った政体が成立し始めた時期とも一致する〔Gade (1996), p. 105〕。
食品の主な調理法としては三つあり、一つは「水茹で」であった。器として最初は竹を、のちに陶や鉄が用いられるようになった〔Linton (1928), p. 367〕。残る二つは、直火焼きと、焼き石や炭火でグリルする調理法であった〔Stiles, D. (1991). 〕。発酵食品としては、牛乳からつくった凝乳(カード)、ある種の塊茎類をそのまま、もしくは干して発酵させたもの、ハチミツかサトウキビ汁もしくは島に自生していた植物を発酵させて作ったアルコール飲料があった〔Sibree (1896), p. 333〕。天日干し薫製塩漬けなどの加工法が、輸送、交易、将来の消費に備えて種々の食品を保存するために用いられた。キトゥザ( ''kitoza'' () )という牛肉の燻製や、塩漬けの魚など、多くの加工食品が現代のマダガスカルにおいても類似した方法で作られ、食されている〔Grandidier (1899), p. 521〕。
16世紀までには中央集権化した王国が、西海岸のサカラヴァ人の中から成立し、中央高地のメリナ人の中からも成立した。メリナ王国の歴代の主権者たちは、「王の沐浴(the Royal Bath, fandroana)」と呼ばれる儀式で新年を祝った.この儀式のために、ザカ(jaka ())と呼ばれる牛肉のコンフィが調理された。調理法は、飾りのついた陶製の壷に牛肉を入れ、スエットで密閉し、密閉した壷を地下室に貯蔵し一年間寝かせた。ザカは翌年の祭りで友人たちに振る舞われた。そして、宴の輪に加わった者たちは食後にタタウ( tatao, )の名で知られるデザートを食べた。これは、牛の乳で炊いたコメにハチミツをまぶしたものである。口誦で伝えられる歴史によると、メリナ王国におけるこれらの料理伝統は、ラランブ王が創始したものである〔Raison-Jourde, Françoise (1983). 〕。ラランブ王の父、アンヂアマネル王は、結婚式の際に交わされるヴディウンヂ(vodiondry, )という伝統を創始した人物とされている。ヴディウンヂとは、もともとは、獣肉のなかで最も好まれる部位である「羊の臀肉」を意味する言葉であった。それがのちに、婚約の儀式の際に花婿が花嫁の両親に羊の臀部の肉を進呈する儀式も意味するようになった〔Kent, Raymond (1970). 〕。現代のマダガスカル社会においては、食べ物を進呈することの代わりに、家族が象徴的なコインを贈ることを意味する言葉として残っている〔Bloch, Maurice (1997). 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マダガスカル料理」の詳細全文を読む




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