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マテヤ・ケジュマン( - , 1979年4月12日 - )は、セルビア・ベオグラード出身の元サッカー選手。元セルビア・モンテネグロ代表。ポジションはFW。 == 来歴 == パルチザン・ベオグラードユースに入団後、ユーゴスラビア(当時)のクラブチームを転々とし、1998年に古巣パルチザンに復帰。1998-99シーズンには28得点を挙げてリーグ得点王に輝く。 2000年、オランダのPSVアイントホーフェンへ移籍。故障に苦しむエース、ルート・ファン・ニステルローイに取って代わり、24得点を挙げる活躍で得点王を獲得するとともにリーグ優勝に貢献。ユーゴスラビア代表にも招集され、5月25日の中国戦で代表デビュー、EURO2000にも出場した。 この頃、クラブの本拠地フィリップス・スタディオンではPSVの得点の度にバットマンのテーマ曲が流れるようになっており、2002年から同僚となったアリエン・ロッベンとともに「バットマンとロッベン」(「バットマンとロビン」をもじったもの)と呼ばれ、「バットマン」のニックネームが定着した。 PSV在籍の4シーズンで3回リーグ得点王を獲得し、国名がセルビア・モンテネグロとなった代表でも中心選手として活躍していたが、EURO2004予選時に当時の監督だったデヤン・サビチェビッチとの確執が表面化し代表を離脱〔宇都宮徹壱の「ユーロ2004予選の愉しみ方」国家非常事態宣言下のベオグラードにて(後編) - スポーツナビ〕、ケジュマンを欠いたセルビア・モンテネグロは本戦出場を逃した。 2004年夏に約500万ポンドの移籍金で大型補強を進めていたイングランドのチェルシーへ移籍する。しかし攻撃陣の層が厚かったこともあって先発出場は14試合に留まり、クラブはリーグ優勝を果たしたものの、不遇のシーズンとなった。 翌2005年、出場機会を求めスペインのアトレティコ・マドリードへ移籍。ワールドカップ欧州予選では代表へ復帰し、同組のスペインを抑え1位通過を果たす。ワールドカップ本大会でも2試合に先発したが、チームは3戦全敗しグループステージで敗退した。 ワールドカップ後の2006年8月、トルコのフェネルバフチェSKに移籍。移籍1年目では中々結果が残せなかったが、翌2007-08シーズンではリーグ戦で11得点と活躍し復活の兆しを見せた。 2008年、パリ・サンジェルマンFCへレンタル移籍。この契約には1部残留を果たせば自動的に買取りとなるオプションが付き、クラブが残留を決めた2009年に完全移籍した。しかし終始控えに甘んじることとなり、高額年俸もネックとなったことから、8月に半年間の契約でゼニト・サンクトペテルブルクへレンタルで放出された。同年12月ゼニトは買取りオプションを行使せず、パリ・サンジェルマンへ復帰した。パリ復帰後は半ば戦力外の様な扱いとなり、2010年11月に契約を解除した。 2011年1月20日、香港リーグの南華足球隊との契約が発表された〔NEXT STOP FOR KEZMAN IS SOUTH CHINA 20 January 2011 www.southchinafc.com〕。 2012年1月、現役を引退する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マテヤ・ケジュマン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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