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ミケランジェロ・ブオナローティ : ミニ英和和英辞書
ミケランジェロ・ブオナローティ[みけらんじぇろ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ミケランジェロ : [みけらんじぇろ]
 【名詞】 1. Michelangelo 2. (n) Michelangelo
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ミケランジェロ・ブオナローティ : ウィキペディア日本語版
ミケランジェロ・ブオナローティ[みけらんじぇろ]

ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(、1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリア盛期ルネサンス期彫刻家画家建築家詩人。西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、ルネサンス期の典型的な「万能人」と呼ばれることもある。
ミケランジェロは存命中から非常に優れた芸術家として高い評価を得ており、現在でも西洋美術史上における最高の芸術家の一人と見なされている〔。ミケランジェロが制作した絵画、彫刻、建築のいずれをとっても、現存するあらゆる芸術家の作品のなかで、最も有名なものの一つとなっている〔。長寿を保ったミケランジェロの創作活動は前述以外の芸術分野にも及ぶ膨大なもので、書簡、スケッチ、回想録なども多く現存している。また、ミケランジェロは16世紀の芸術家の中で最もその記録が詳細に残っている人物でもある。
ミケランジェロの彫刻で最も有名と思われる『ピエタ』(1498年 - 1499年、サン・ピエトロ大聖堂)と『ダヴィデ像』(1504年、アカデミア美術館)は、どちらもミケランジェロが20歳代のときの作品である。また、ミケランジェロ自身は絵画作品を軽視していたが、西洋美術界に非常に大きな影響を与えた2点のフレスコ画システィーナ礼拝堂の『システィーナ礼拝堂天井画』と祭壇壁画『最後の審判』を描いている。さらに建築家としてもフィレンツェので、マニエリスム建築の先駆けといえる様式で設計を行っている。また、74歳のときにアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネの死去をうけて、当時改築中だったサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命された。このときミケランジェロは従前の設計を変更し、建物西側(奥)はミケランジェロの設計どおりに建てられた。ただし、主ドーム部分はミケランジェロの死後になって、別の設計に変更されて完成している。
ミケランジェロは、存命中にその伝記が出版された初めての西洋美術家であるという点でも、際立った存在といえる〔Michelangelo. (2008). Encyclopædia Britannica. ''Ultimate Reference Suite''.〕。伝記のうちの一つがジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』で、ヴァザーリはミケランジェロをルネサンス期の芸術における頂点として絶賛し、その作品は何世紀にもわたって西洋美術界で通用するだろうとしている。ミケランジェロは存命中から「神から愛された男 (''Il Divino'' )」と呼ばれることすらあり、当時の人々からは偉人として畏敬の念を持って見られていた。ミケランジェロの作品に見られる情熱的で独特の作風は後続の芸術家たちの模範となり、盛期ルネサンスの次の西洋芸術運動であるマニエリスムとなって結実していった。
== 生涯と作品 ==

=== 幼少期 ===

ミケランジェロは1475年3月6日〔ミケランジェロの父はミケランジェロの誕生日は1474年3月6日と記録している。ただし、この記録は当時フィレンツェで用いられていた年記法によるもので、ローマで採用されていた年記法では1475年となる。〕に、現在のトスカーナ州アレッツォ近郊にあたるフィレンツェ共和国カプレーゼに生まれた〔J. de Tolnay, ''The Youth of Michelangelo'', 11〕。ミケランジェロの一族は数世代にわたってフィレンツェで小さな銀行業を営んでいたが、ミケランジェロの父ルドヴィーコ・ディ・レオナルド・ディ・ブオナローティ・シモーニは銀行経営に失敗し、共和国政府の臨時職員として生計を立てていた〔。ミケランジェロ誕生当時のルドヴィーコはカプレーゼの小さな町の判事職と、キウージの首席行政官を務めていた。母親の名前はフランチェスカ・ディ・ネリ・デル・ミニアート・シエーナである〔C. Clément, ''Michelangelo'', 5〕。ルドヴィーコは、トスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサの末裔を自称しており、ミケランジェロもこれを信じていたが、事実かどうかは今も立証されてはいない〔A. Condivi, ''The Life of Michelangelo'', 5〕。ミケランジェロの誕生後数ヶ月で一家はフィレンツェへと戻り、ミケランジェロは幼少期をフィレンツェで送った。1481年、ミケランジェロが6歳の時、長い闘病生活の後に母フランチェスカが死去している。当時のミケランジェロの一家は石工の一家と共にセッティニャーノに住んでおり、父ルドヴィーコはこの地で大理石採石場と小さな農園を経営していた〔。ジョルジョ・ヴァザーリは著書でミケランジェロの言葉として「私が幸運だったのは、アレッツォの繊細な環境に生まれたことだ。乳母の乳を飲みながら鑿と金槌の使い方と人物彫刻のコツをつかむことができた」と記載している。
父ルドヴィーコは、若年のミケランジェロを人文主義者フランチェスコ・ダ・ウルビーノのもとへ送り、学問を学ばせようとした〔〔A. Condivi, ''The Life of Michelangelo'', p.9〕〔ミケランジェロが学問を学ぶために親元を離れた年齢は文献ごとに相違がある。ド・トルナイは10歳とし、アスカニオ・コンディヴィの伝記を翻訳したセジウィクは7歳としている。〕。しかしミケランジェロは学問には興味を示さず、教会の装飾絵画の模写や画家たちと交際することを好む少年だった〔。ミケランジェロは13歳のときに画家ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りし〔〔R. Liebert, ''Michelangelo: A Psychoanalytic Study of his Life and Images'', p.59〕、わずか14歳でギルランダイオに一人前の画家と認められたが、これは当時としては極めて異例のことだった〔C. Clément, ''Michelangelo'', p.7〕。1489年にメディチ家当主でフィレンツェの最大権力者ロレンツォ・デ・メディチがギルランダイオに、最も優れた弟子を2人自分のところへ寄こすように求め、このときにミケランジェロとがロレンツォの元へと派遣されている〔C. Clément, ''Michelangelo'', p.9〕。1490年から1492年にかけて、ミケランジェロはメディチ家が創設した人文主義のプラトン・アカデミーへと参加している。当時のミケランジェロはのもとで彫刻を学んでおり、さらに16歳頃のミケランジェロは、私的なサークルであるプラトン・アカデミーに集うマルシリオ・フィチーノピコ・デラ・ミランドラアンジェロ・ポリツィアーノなど当代一流の人文主義者や詩人たちと交流していた〔J. de Tolnay, ''The Youth of Michelangelo'', pp.18 - 19〕。この時期にミケランジェロが制作したレリーフとして『』(1490年 - 1492年)、『』(1491年 - 1492年)が挙げられる。『ケンタウロスの戦い』はポリツィアーノがミケランジェロに語ったギリシア神話のエピソードをもとに制作されたもので、ロレンツォ・デ・メディチがミケランジェロに依頼した作品だった〔A. Condivi, ''The Life of Michelangelo'', p.15〕。ベルトルド・ディ・ジョヴァンニのもとで修行していた17歳のミケランジェロは、ロレンツォ・デ・メディチの後援で彫刻を勉強していた3歳年長のに顔を殴られて鼻骨が曲がってしまっており、現存するミケランジェロの肖像画の多くでこの特徴がはっきりととらえられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ミケランジェロ・ブオナローティ」の詳細全文を読む




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