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ミッドナイト東海(ミッドナイトとうかい)は、東海ラジオ放送で放送していた深夜番組。東海ラジオで24時間放送が開始された2年後の1968年3月から1983年8月まで放送された。 == 番組の歴史 == === 放送開始 === 1960年代中頃に東京や大阪で始まっていた深夜放送を、中継放送ではなく自社制作で作るきっかけとなったのは、ゴールデンタイムにキャバレーやラブホテルなどのコマーシャルが多いために、それを深夜にまとめて移行したいという東海ラジオの思惑があった。 そして、名古屋のラジオやテレビ、舞台で活躍していた天野鎮雄、東海ラジオのアナウンサーだった中神靖、そして岡本典子(名前は「よりこ」、現・フリーアナウンサー、ボイストレーナー)の3人が、月曜から土曜まで週2回ずつ担当することで番組が始まったが、間もなくして中神靖が辞める事になったため、天野鎮雄がNHKのテレビドラマで何度も共演していた森本レオを番組プロデューサーに推薦した。 今でこそ穏やかな語り口調で知られる森本レオだが、この番組のオーディションの時、自己流の型破りな表現にラジオのプロデューサーは眉をひそめた。しかし紹介者である天野鎮雄がスタッフを説得し、水曜と土曜の深夜を担当する2代目のパーソナリティとなった。またこの時に、口癖であった「俺(おれ)」という言い方を注意されたことに反発し、俺をひっくり返して芸名を「森本レオ(当初は漢字で玲夫)」とした話は有名である。こうして、3人とも同じ2月13日生まれのパーソナリティ「アマチン・リコタン・レオ」のトリオが誕生した。 当初は、深夜の労働者向けの放送を意図していたため、成人対象の業種のコマーシャルを普通に流していたが、実際は受験生、大学生が多数を占めていると言うことが判り、コマーシャルを大幅に手直しする事になった。リスナー層は中学生、高校生にも広がり、「アマチン・リコタン・レオ」のパーソナリティ3人は、放送開始の約一年後には愛知県体育館でのファンの集いに一万人のリスナーを集めるなど、大人気となった。他にも、夏休み御岳鈴蘭高原バスツアーなどのイベントも行っているが、このバスツアーの一般参加者に、天野鎮雄のファンで当時高校1年生だった竹下景子がいた。この時の出会いがきっかけで、竹下景子は天野鎮雄にNHK名古屋制作のドラマ「中学生群像」(「中学生日記」の前身)を紹介され、女優デビューを果たした(なおこの話題は、クイズバラエティ番組のぴったんこカン・カン(TBS系列)のロケで、竹下が安住紳一郎とともに名古屋を訪れた際、天野鎮雄によって語られている)。 地元発の深夜放送として若者に絶大な人気を博した番組となったため、同じラジオネットワーク(NRN)だったニッポン放送からの「オールナイトニッポン」のネット依頼を断ることになり、結局「オールナイトニッポン」はCBCラジオで第1部をネットすることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミッドナイト東海」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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