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ヤリ゠マティ・ラトバラ(よりフィンランド語に近い表記ではヤリ゠マッティ・ラトヴァラ、Jari-Matti Latvala 1985年4月3日- )は、フィンランド出身のラリードライバー。父、ヤリ・ラトバラは1994年フィンランド国内選手権のグループNクラスチャンピオン。 == 経歴 == 幼少時よりカートを始め、8歳の時に父親からもらったフォード・エスコートを運転している。10歳のときには、オペル・アスコナで凍結した湖の上でラリーの練習を行った〔Jari-Matti Latvala, Suomi 〕。 2002年にラリー・グレートブリテンでWRCにデビューした。〔フィンランドでは18歳にならないとラリーに参戦できない。〕。三菱・ランサーエボリューションで参戦した彼は17位となった。2003年にはフォードワークスのフォーカスWRCでWRC数戦に出場。アクロポリス・ラリーで10位、ラリー・ドイチュラントで17位、ラリー・フィンランドで14位、ラリー・グレートブリテンで10位となった。〔RallyBase 〕。2004年にはJWRCにフォード・フィエスタで参戦するが、マシンの極端な信頼性不足で芳しい成績を出せず、シーズン途中でスズキ・イグニスにマシンを変更。ラリー・フィンランドでクラス4位に入賞した。2005年は9戦に参戦し、最高位は16位。6戦はスバル・インプレッサを、残り3戦はトヨタ・カローラWRCをドライブした。 2006年にはPWRCにインプレッサで参戦。序盤はミスが重なり、結果を出せなかったが、終盤2連勝を果たしてランキング4位となる。またこの年は、並行してストバートVKフォードワールドラリーチームのフォード・フォーカスでWRCに4戦に出場。最終戦ラリー・グレートブリテンで、この年のチーム最高位の4位でフィニッシュした。このシーズンのポイントランキングでは13位となった。 2007年、ストバートVK Mスポーツフォードから初のWRCフル参戦を開始。シーズン中盤になると時折速さを見せたものの安定感に欠け、上位入賞の機会を逃すこともあった。それでも、この年の第15戦ラリー・アイルランドで自身初の表彰台となる3位を獲得した。 2008年はマーカス・グロンホルムの引退を受け、ワークスのBPフォードアブダビワールドラリーチームに昇格した。〔Ford confirms line-up. 〕同年2月10日、スウェディッシュ・ラリーで初優勝を果たし、ヘンリ・トイヴォネンが長年持っていた最年少優勝記録を塗り替えた。〔WRC=スウェディッシュ・ラリー、ラトバラが史上最年少V 〕その後は速さを見せるもミスが多発し上位入賞を逃しており、この年のターマック2連戦カタルニア、コルシカの2戦のみ、ストバートVK Mスポーツフォードから出場している。 2009年も同じ体制でフォードから出場。ミスは減らずポルトガルでは崖下に転落する大クラッシュを起こしてマシンは大破したが、ラトバラとアンティラは無傷だった。ラリー・サルディニアで2勝目を挙げるが、1-2フィニッシュがほぼ確実と思われていたラリー・ポーランドでは最終SSでミスを喫しまさかのリタイヤに終わった。 2010年シーズンは前年のミスでチームからセカンドドライバーとして戦うこととなった。しかしエースであるヒルボネンがスウェーデン優勝以降不調だったのに対し、ラトバラはニュージーランド、地元フィンランドで優勝しターマックでもヒルボネンを上回る走りを見せ、この年は走りの安定感も向上しドライバーズタイトル2位を獲得した。 2011年はターマック能力が飛躍的に向上した。ラリー・アルゼンチンで新たに加わったターマックでその片鱗を感じさせていたが、ついにカタルニアのSS11、SS12でセバスチャン・ローブを上回るトップタイムを叩き出す。シーズン終盤ではエースのミッコ・ヒルボネン以上の速さを見せて総合順位でも上位に食い込むが、そのヒルボネンが僅差でセバスチャン・ローブ、セバスチャン・オジェとタイトルを争っていた為、チームオーダーに従い順位を譲る場面が度々見られた。 2012年はミッコ・ヒルボネンのシトロエン移籍を受け、フォードの1stドライバーへ昇格した。スウェーデンで優勝するも、メキシコではクラッシュを喫し最終SSを前にしてリタイアとなった。さらにトレーニング中に鎖骨を骨折しアルゼンチン欠場を余儀なくされた。シーズン後半はタイトルの可能性が残っていたチームメイトペター・ソルベルグのサポート役に回ることとなった。しかしフィンランド以降は再び成績が安定しドイツ、フランス、スペインではターマック自己最高の2位表彰台入賞を果たし、グレートブリテンでは2連覇を達成しランキング3位を獲得した。そしてシーズン終了後噂されていたフォルクワーゲンへ移籍が決まった。 2013年は古巣フォードを離れフォルクスワーゲンで参戦。開幕戦モンテカルロではチームメイトのセバスチャン・オジェが2位表彰台を獲得したが、ラトバラは最終日にクラッシュを喫しリタイアという散々な結果に終わる。しかしスウェーデンでの4位入賞、ポルトガル、アルゼンチンと2戦連続で3位表彰台に立つ等成績を伸ばし、アクロポリスでは移籍後初勝利を飾った。その後は優勝こそなかったがコンスタントに成績を残し、フォルクスワーゲンのマニュファクチャラーズタイトル獲得に貢献した。ランキングでも前年に続き3位となり移籍初年度ながら好成績をマークした。 2014年も引き続きフォルクスワーゲンから参戦。昨年とは違い第2戦スウェーデンで優勝し幸先の良いスタートを切る。その後もチームメイトのセバスチャン・オジェと激しいタイトル争いを繰り広げ、フランスでは自身初のターマック優勝を果たした。ドイツでのリタイアが響きタイトルにはあと一歩届かなかったもののドライバーズランキングでは4年振りのランキング2位を獲得した。 2015年はポルトガル、フィンランド、コルシカと3勝を挙げるも序盤からの不調が響き開幕戦から勝ちを重ねたチームメイトオジェにまたしても敗れランキング2位となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヤリ=マティ・ラトバラ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jari-Matti Latvala 」があります。 スポンサード リンク
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