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ユーリヒ公領 : ミニ英和和英辞書
ユーリヒ公領[りょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate
公領 : [こうりょう]
 【名詞】 1. duchy 2. dukedom 3. principality

ユーリヒ公領 ( リダイレクト:ユーリヒ公国 ) : ウィキペディア日本語版
ユーリヒ公国[ゆーりひこうこく]

ユーリヒ公国:Herzogtum Jülich)またはフーリク公国:Hertogdom Gulik)は、神聖ローマ帝国領邦国家。公国はユーリヒを首都とし、その領域はラインラント低地のルーア川両岸に拡がっていた。公国の領域は現在のドイツノルトライン=ヴェストファーレン州の一部、そしてオランダリンブルフ州の一部にあたる。1423年ベルク公国と合併して以後、ユーリヒ=ベルク公国(Jülich-Berg)と呼ばれた。ユーリヒ公国の住民たちはオランダのリンブルフ地方の人々と言語的にも文化的にも近く、同じリンブルフ語方言を使っていた。
== 歴史 ==
低地ロレーヌに属するユーリヒ・ガウの最初の伯は、1003年の史料に初めて記述されるゲルハルト1世である。その孫のゲルハルト3世は1081年にユーリヒ伯を自称した。1219年にユーリヒ伯となったヴィルヘルム4世は、自領を大きく拡げて1234年にはユーリヒに都市法を適用したものの、ユーリヒ伯の勢力伸長を嫌うケルン大司教コンラート・フォン・ホッホシュターデンの侵攻のため、1239年にユーリヒの町は攻撃され荒廃している。
ヴィルヘルム4世の息子ヴァルラム伯(在位:1278年 - 1297年)もケルン大司教と敵対し、1288年に大司教ジークフリート・フォン・ヴェスターブルクとブラバント公ジャン1世の間で行われたヴォーリンゲンの戦いでは、後者のブラバント公を支援した。ヴァルラム伯の弟のゲルハルト7世ドイツ王位をめぐる争いでナッサウ家アドルフを支持して対立王であるハプスブルク家アルブレヒト1世と敵対したが、アドルフが1298年のゲルハイムの戦いで落命した後もその所領を保持した。ゲルハルト7世はまた父や兄と同様にケルン大司教と敵対し、1314年には大司教の意志に反してヴィッテルスバッハ家ルートヴィヒ4世のドイツ王戴冠式をアーヘン郊外で挙行するのに手を貸している。
ゲルハルト7世とケルン大司教の長い争いは、1332年にゲルハルトの3男ヴァルラムがケルン大司教に就任したことで終わった。ゲルハルト7世の長男で後継者のヴィルヘルム6世は、1336年にルートヴィヒ4世から辺境伯の称号を与えられ、1356年にはルクセンブルク家神聖ローマ皇帝カール4世により公爵に昇格することを認められ、ユーリヒ公ヴィルヘルム1世となった。その息子の公爵ヴィルヘルム2世はカール4世の異母弟であるルクセンブルク公・ブラバント公ヴェンツェル1世と凄絶な闘争を繰り広げ、1371年にはヴァースヴァイラーの戦いでヴェンツェルに大勝利を収めている。
この時期から、ユーリヒ公国の歴史はクレーフェ公国ベルク公国ゲルデルン公国マルク伯領といった近隣諸国と深くかかわっていくことになる。ヴィルヘルム2世はゲルデルン公ライナルト2世の娘マリアと結婚し、マリアは異母弟のライナルト3世の死後にゲルデルン公爵位を継承した。夫妻の息子ヴィルヘルム3世は二つの公爵領を相続したが、その弟ライナルトが1423年に相続人のないまま死ぬと、ゲルデルン公国はその妹の孫であるアルノルト・ファン・エフモントに受け継がれ、ユーリヒ公国はユーリヒ公爵家の同族であるベルク公アドルフが継承した。
1511年にユーリヒ=ベルク公爵家最後の当主ヴィルヘルム4世が死ぬと、二つの公爵領と付属のラーフェンスベルク伯領はその娘婿のクレーフェ公ヨハン3世が継承した。1521年よりユーリヒ=ベルク公国とクレーフェ公国は、ヨハン3世を共通の君主に戴く同君連合国家、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国になった。
ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン・ヴィルヘルム1609年に相続人なく没すると、3つの公爵領の後継をめぐりブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒとの間でユーリヒ=クレーフェ継承戦争が勃発した。1614年のクサンテン条約により、3公爵領はプファルツ=ノイブルク公とブランデンブルク選帝侯の間で分割されることになった。ユ-リヒとベルクはフィリップ・ルートヴィヒの長男ヴォルフガング・ヴィルヘルムが手に入れた。1742年にプファルツ=ノイブルク家最後の当主であるプファルツ選帝侯カール3世フィリップの死後、傍系でプファルツ選帝侯位を継承したプファルツ=ズルツバッハ家のカール・テオドール(1777年よりバイエルン選帝侯も継承)が受け継いだ。
1794年、ユーリヒ公国はフランス共和国に占領され、フランス領ロール県の一部に組み込まれた。1801年リュネヴィル条約により、ユーリヒは正式にフランス領となることが承認された。しかし1815年ナポレオンが失脚すると、ユーリヒはプロイセン王国領ユーリヒ=クレーフェ=ベルク県(1822年よりライン県に統合される)の一部となった。ただし、シッタルトとテーヘレンの2都市はネーデルラント連合王国に併合された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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