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ヨアヒム・パティニール : ミニ英和和英辞書
ヨアヒム・パティニール[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヨアヒム・パティニール : ウィキペディア日本語版
ヨアヒム・パティニール[ちょうおん]

ヨアヒム・パティニール(Joachim Patinir 、1480年頃 - 1524年10月5日)は初期フランドル派の画家。現在のベルギー南部(ワロニア地方)の出身で、歴史絵画風景絵画を多く描いた。フランドルの風景画家ヘッリ・メット・デ ブレス (:en:Herri met de Bles) の叔父ではないかとされており、北方ルネサンス風景絵画の先駆者とみなされている〔Though de Bles was only 14 when Patiner died〕。
== 概説 ==
パティニールは現在のベルギー、ディナンかブーヴィーニュの生まれで、1515年に、その生涯のほとんどを過ごしたアントワープ聖ルカ芸術家ギルドの一員として登録されている。ブルッヘで同じ年にギルドのメンバーとして登録されたヘラルト・ダヴィトとともに修行したのではないかと考えられている。1511年にパティニールは、ダヴィト、アードリアン・イーゼンブラント (:en:Adriaen Isenbrandt)とともにイタリアジェノヴァへ旅している。
1521年にパティニールの二回目の結婚式に友人アルブレヒト・デューラーが出席し、パティニールの肖像画を描いている。デューラーはパティニールのことを「素晴らしい風景画家 ''er gute Landschaftmaler''」と呼んでいた。パティニールの作品には広大な風景に小さな人物を描いたものが多く、なかには風景のみパティニールが描き、人物は他の画家が描き加えることもあった。このような「分業」は当時のネーデルラント絵画では普通になりつつあった。
パティニールの作品は、前世代で同じく広大な風景画を描いたヒエロニムス・ボスなど当時のネーデルラントの絵画に比べて大きなものが多い。パティニールの描く広大な風景は自然の詳細な観察と、叙情的な幻想とを融合させたさせたもので、もっとも好適な例としてアントワープ王立美術館所蔵の『エジプトへの逃避 (''The Flight into Egypt'')』があげられる。風景に描かれている岩はパティニールの故郷ディナンの実際の風景と比べて、より壮大で鮮烈なものとなっている。緑色と青色の色調変化を使うことによって遠近感を出し、広々とした空間を表現していることも特徴としてあげることができる。
ほかの作品例として『エジプト逃避途上の休息 (''The Rest on the Flight into Egypt'')』(プラド美術館。プラド美術館は4枚のパティニールの絵画を所蔵しており、うち2枚にはパティニールのサインがある)、『キリストの洗礼 (''The Baptism of Christ'')』(ウィーン美術史美術館)、『パトモス島の聖ヨハネ (''St. John at Patmo'')』(ロンドン・ナショナル・ギャラリー。パティニールの工房作)、『羊飼いのいる風景 (''Landscape with the Shepherds'')』(アントワープ王立美術館)、『エジプト逃避途上の休息 (''The Rest on the Flight into Egypt'')』(ミネアポリス美術館)などがある。他にパティニールの作品ではないかとされている『悔悛する聖ヒエロニムス (''The Penitence of St. Jerome'')』と呼ばれる三連祭壇画などもある〔List of works in the Prado exhibition, 2007 〕。
パティニールのサインが残っている作品はわずかに5枚しかないが、まず間違いなくパティニールあるいはパティニールの工房の作品であるとされている作品は多い。残っているサインの一つは「''(Opus) Joachim D. Patinier''」と読むことができる。サイン中の大文字の「D」は「ディナンの ''Dionantensis''」を意味し、パティニールの故郷がディナンであることの証明と考えられている。プラド美術館ではパティニールあるいはパティニールの工房作の絵画21点を展示したことがある。しかし所蔵目録に記載されている、残り8枚の絵は展示されなかった〔''Prado feature '', exhibition "Patinir", 2007, プラド美術館, Madrid, Spain.〕。
パティニールは独立した分野としての風景絵画の先駆者であり、フランドルでは最初の風景画家で第一人者であると自負していた。パティニールはデューラーだけではなく、クエンティン・マサイスとも友人で、共同で絵画を制作することがあった。プラド美術館所蔵の『聖アントニウスの誘惑 (''The Temptation of St Anthony'') 』はマサイスとともに制作したもので、パティニールが風景を、マサイスが人物を描いている。同年代の画家で、同じく風景絵画の先駆者といえるアルブレヒト・アルトドルファーがいるが、パティニールの風景画とは作風がまったく異なっていた。
パティニールは1524年にアントワープで死去し、友人だったクエンティン・マサイスが残された子供たちの後見人となっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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