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ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・シュトゥッターハイム : ミニ英和和英辞書
ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・シュトゥッターハイム[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・シュトゥッターハイム : ウィキペディア日本語版
ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・シュトゥッターハイム[ちょうおん]

ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・シュトゥッターハイム(、または「老シュトゥッターハイム(Alt-Stutterheim)」、1715年11月2日ゼレンドルフニーダーラウズィッツ-1783年8月26日ケーニヒスベルク)はプロイセン王国中将である。
==生涯==
シュトゥッターハイムは偶然に出会ったプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世に好意を抱き、かつてザクセン選帝侯領大尉であり、今や領主として暮らしていたの許可を得て1729年ベルリン士官学校に入学した。そこから1732年士官候補生として「クレッヒャー」歩兵連隊に配属される。
連隊で彼は1735年に准尉、そして1739年少尉へ昇進した。
そのまま第一次シュレージエン戦争を迎えると、早くもモルヴィッツの戦いにおいて抜群の戦功を挙げ、国王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)からプール・ル・メリット勲章を授かり、カミン大聖堂聖堂参事会員の職を賜るとともに、「ラ・モット」歩兵連隊に属する1個中隊指揮1806年に「古プロイセン第17歩兵連隊(Altpreußisches Infanterieregiment Nr. 17)」に改称)を託された。
この後、シュトゥッターハイムはコトゥズィッツの戦いホーエンフリートベルクの戦いおよびゾーアの戦いに参加している。なお、ゾーアの戦いで負傷した。
1747年少佐に昇進するとロボズィッツの戦いで改めて大功を立て、大王から異例の恩給、年額500ターラーを下賜された。そして1757年5月、中佐として連隊の指揮官に就任すると同年中に大佐に昇進し、プラハコリンブレスラウそしてホッホキルヒで戦う。1759年には少将に昇進し、かつての「カナハー」歩兵連隊(1806年に「古プロイセン第30歩兵連隊」に改称)を自身の指揮下に引き継ぐ。
同年、プロイセン公子ハインリヒの指揮下に入ると公子は9月13日、ゲルリッツから出した手紙の中で、シュトゥッターハイムがフリートラントの物資集積地を焼き払い、捕虜700名を得たと書いている。
1760年、シュトゥッターハイムはリーグニッツトルガウで戦った。そしてトルガウでは重傷を負っている。1761年、ハインリヒ公子の軍団に復帰すると1600名を託され、ブランデンブルク辺境伯領スウェーデン軍から防衛するため、同地へ派遣される。1762年、最後の遠征にも彼はハインリヒ公子に従って参加した。同年10月29日、フライベルクの戦いにおいてシュトゥッターハイムは左翼を指揮し、攻勢を担っている。そして勝利への貢献に報い、マクデブルクにある聖ニコライ教会司教座聖堂参事会員職を賜った。
1763年講和条約が締結されると、フリードリヒ大王はシュトゥッターハイムを東プロイセンの歩兵総監に任じ、ケーニヒスベルクへ派遣した。1768年、中将に昇進すると黒鷲章と別の連隊(「カーニッツ」歩兵連隊、1806年に「古プロイセン第2歩兵連隊」に改称)を賜っている。またケーニヒスベルク、ピラウおよびメーメル総督に任命された。
1778年バイエルン継承戦争が勃発するとシュトゥッターハイムはフリードリヒ大王の軍において、上シュレージエンの軍団の先鋒となり、トロッパウを占領している。
その後、「老シュトゥッターハイム」が没する少し前にフリードリヒ大王は手紙を彼の許へ送った〔レオポルト・フォン・ツェトリッツ=ノイキルヒ(Leopold Freiherr von Zedlitz-Neukirch)著:『Pantheon des preußischen Heeres』、 ベルリン、 1835年(ドイツ語) 〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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