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ヨアヒム・ヘルビッヒ(Joachim Helbig, 1915年9月10日 - 1985年10月5日)は、第二次世界大戦時のドイツ空軍爆撃部隊のパイロットである。480回の作戦行動で18万2,000トン数に上る連合国軍船舶を撃沈した〔Berger 2000, p. 121.〕。 ヨアヒム・ヘルビッヒは1915年に生まれ、1936年にドイツ空軍へ入隊した。第二次世界大戦が始まると第1教導航空団(LG 1)で観測員を務め、ポーランド侵攻に参加した。更にノルウェー侵攻、オランダにおける戦い、ベルギーの戦い、フランス侵攻に参加し、これらの戦いでの功績により1940年11月9日に騎士鉄十字勲章を授与された。その後地中海戦域へ転戦し、マルタや英地中海艦隊への攻撃、ドイツアフリカ軍団(DAK)への支援に参加した。1942年9月28日にヘルビッヒは、エルヴィン・ロンメル陸軍元帥の1942年夏の攻勢の支援と18万2,000トン数の敵船舶を撃沈した功により20番目の柏葉・剣付騎士鉄十字勲章受章者となった。 当初ヘルビッヒは作戦飛行を禁じられ、空軍の爆撃部隊を掌握する高級将校である爆撃航空兵総監(General der Kampfflieger)の兵監となった。1943年8月に連合国軍のイタリア侵攻に対峙するLG 1の航空団司令に就任し、ヨーロッパでの戦争の終幕にはLG 1と第200爆撃航空団(KG 200)の残存部隊を率いて東部戦線で戦った。 戦後、ヘルビッヒはベルリンの醸造業者の支配人の職に就いた。ヨアヒム・ヘルビッヒは、スペインで自動車事故にあった後の1985年10月5日にマレンテで死去した。 == 軍歴 == ヨアヒム・ヘルビッヒは1915年9月10日にザクセン王国のダーレンにあるベルルン(Börln)と呼ばれる集合住宅で生まれた。田舎育ちの乗馬が大好きな少年であった〔。1935年に軍務に志願し、最初の1年間はドレスデンの第4砲兵連隊(''Artillerieregiment'' 4)に配属された。1936年秋にレヒフェルト(Lechfeld)の爆撃機学校(''Kampffliegerschule'')へ転属となり、1937年4月に観測員と機上銃手としての訓練を終了するとシュヴェリーンの第152爆撃航空団(KG 152)「ヒンデンブルク」/第III飛行隊に配属された。1938年11月1日にKG 152/第III飛行隊は第1教導航空団(LG 1)/第II飛行隊となり、ヘルビッヒはそこで非公式の操縦訓練を開始した〔Berger 1999, p. 120.〕〔Schumann 2007, p. 80.〕〔Taghon 2004a, pp. 22, 23.〕。 ヘルビッヒの2人の友人フリッツ・ゾーラー(Fritz Sohler)中尉とゲルハルト・シュレーダー(Gerhard Schröder)中尉は観測員のヘルビッヒに操縦を教え、ヘルビッヒは多発航空機に習熟していることを示す「C免許」として知られる空軍高等操縦免許(''Erweiterter Luftwaffen-Flugzeugführerschein'')を取得した。ヘルビッヒの受けた非公式の訓練は全ドイツ空軍の爆撃部隊の中でもユニークなものであった〔Kurowski 1996, p. 34.〕〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨアヒム・ヘルビッヒ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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