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ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys、1921年5月12日-1986年1月23日)は、ドイツの現代美術家・彫刻家・教育者・社会活動家。 初期のフルクサスに関わり、パフォーマンスアートの数々を演じ名を馳せたほか、彫刻、インスタレーション、ドローイングなどの作品も数多く残している。脂肪や蜜蝋、フェルト、銅、鉄、玄武岩など独特な素材を使った立体作品を制作したが、同時代のミニマルアートとは背景となる思想が異なり、その形態と素材の選択は、彼の『彫刻理論』と素材に対する優れた感覚によっていた。 また『社会彫刻』という概念を編み出し、彫刻や芸術の概念を「教育」や「社会変革」にまで拡張した。『自由国際大学』開設、『緑の党』結党などに関与し、その社会活動や政治活動はドイツ国内で賛否両論の激しい的となっている。しかしその思想と、『人間は誰でも芸術家であり、自分自身の自由さから、「未来の社会秩序」という「総合芸術作品」内における他者とのさまざまな位置を規定するのを学ぶのである』という言葉は、20世紀後半以降のさまざまな芸術に非常に重要な影響を残している。 == 前半生 == ボイスはドイツ北西部のクレーフェルトに生まれ、オランダ国境に近い田園地帯の街クレーヴェで育った。彼は動物や植物などの自然に興味を持ち、鹿やウサギ、家畜の羊の群れと接する子供時代を過ごした。またチンギス・ハンの伝説や、クレーヴェ伯代々の白鳥崇拝の残るシュヴァーネンブルク(白鳥城)や当地の白鳥の伝説に影響を受けた。こうした伝説や動物たちは後の彼の作品にしばしば登場している。近くに住むアヒレス・モルトガット(Achilles Moortgat、1881年-1957年)のアトリエをよく訪ねるなど芸術に接する機会もあったが、医学の道を進むもうと考えていた。 1936年ごろ、ボイスはヒトラー・ユーゲントに加入した。後に彼は「誰もが教会に行くように、当時は誰もがヒトラー・ユーゲントに行った」と語っている。(Tisdall, Caroline. ''Joseph Beuys'', London, 1979, p. 15.)またこの頃、焚書される書籍の中にあった彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックの作品図版に強い衝撃を受けた彼は、以後生涯にわたりレームブルックを尊敬し彫刻の可能性を信じるようになった。1940年代前半からはデッサンを描き始めるが、そこでは北方や東方の神話、自然科学、ルドルフ・シュタイナーの人智学の問題に取り組んでいた。 おりしも第二次世界大戦が勃発した頃で、ボイスは1940年ドイツ空軍に志願し、ハインツ・ジールマン(戦後西ドイツで野生動物のドキュメンタリー映画作家として有名になった人物)による訓練を受けた後、Ju 87(シュトゥーカ)急降下爆撃機に無線オペレーターとして搭乗し東部戦線で戦った。 彼が作品の中に顕著に脂肪とフェルトを使うようになった理由について、戦時中の体験が引用されることがある。1944年5月16日、クリミア半島上空で彼はソ連軍に撃墜され、ステップに墜落して軽症を負った。数日後もしくは翌日、彼はドイツ軍野戦病院(Feldlazarett)179号に収容され2週間の手当てを受けた。ボイスは後に、墜落後助かった理由について、遊牧民のタタール人(クリミア・タタール人)に助けられ、体温が下がらないように脂肪を塗られてフェルトにくるまれたという話を様々に語っており、この体験が個人的な転回点になったとしてタタール人や脂肪にまつわる作品を多く制作している。しかしタタール人による救助については確証がない。これは事実ではなく、自分と遊牧民や素材とを結びつけるための個人的な神話作りだとみなす見方が研究者の中にはある(クリミア・タタール人に対しスターリンが対独協力の罪で強制移住命令を出したのは1944年5月18日)。 負傷からの復帰後、彼は西部戦線で空挺部隊の降下猟兵(Fallschirmjäger)として戦い、鉄十字章や戦傷章金章を含むさまざまな勲章を受けた。戦争末期、彼はイギリス軍の捕虜となり、1945年8月にクレーヴェの両親の家に戻ることができた。 泥沼の東部戦線を体験し、頭に重傷を負って復員したボイスはクレーヴェで傷を癒しながらシュタイナーの人智学を研究し、水彩画やドローイングを描き始め、地元の画家に学んだ。1947年、彼はデュッセルドルフに移り、デュッセルドルフ芸術アカデミーで芸術の勉強を開始した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨーゼフ・ボイス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Joseph Beuys 」があります。 スポンサード リンク
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