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ライー・ソウザ・ヴィエイラ・ジ・オリヴェイラ : ミニ英和和英辞書
ライー・ソウザ・ヴィエイラ・ジ・オリヴェイラ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ライー・ソウザ・ヴィエイラ・ジ・オリヴェイラ ( リダイレクト:ライー ) : ウィキペディア日本語版
ライー[ちょうおん]

ライーこと、ライムンド・ソウザ・ヴィエイラ・ジ・オリヴェイラRaimundo Souza Vieira de Oliveira, 1965年5月15日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手
実兄のソクラテスは、スペインW杯の「黄金のカルテット」の一人で「ドトール(医者、博士)」の愛称で呼ばれた1980年代を代表するサッカー選手である。
== 略歴 ==
サンパウロFC1992年トヨタカップを制した時のキャプテン。その時に決めたゴールは「伝説の股間ゴール」と称されている。
ボタフォゴFCでキャリアをスタートすると頭角を現し1988年にブラジル代表へ選出、同年にはサンパウロFCに移籍するが適応する事が出来ず、長い低迷期に入り代表からも外れる。数年の雌伏を経てライーは復調を果たしサンパウロFCの不動のエースに成長。ブラジル代表には1991年カルロス・アルベルト・パレイラが監督に就任すると復帰し、不動の10番として活躍した。1992年にはサンパウロFCにトヨタカップをもたらした。
この活躍を受けて、1993年にライーはフランスパリ・サンジェルマンに移籍。しかし、ライーはここでも短期間でフィットすることができず、絶不調に陥る。ちょうどワールドカップアメリカ大会予選の真っ最中だったが、パレイラはあくまでライーを10番(プレーメーカー)として起用し続けた。絶不調に対し「10番論争」がブラジル世論を席巻したが、「ライーが復調すれば10番問題は片付く」とパレイラは擁護し続けた。
しかし、ライーは1994年に入っても不振を極め、同じブラジル人のバウドにポジション争いで敗れる屈辱を味わったばかりか、当時、日本で最晩年を迎えたジーコ待望論が起きるほどだった。迎えたワールドカップアメリカ大会の開幕戦、注目のブラジル代表の10番・主将・プレーメーカーはライーだった。ライーはPKで得点するが、全般的に低調で、決勝トーナメントに入るとライーの指定席はベンチとなり、これ以降、ブラジル代表主将は「闘将」ドゥンガのものとなった。
皮肉なことにライーはワールドカップ終了後、パリ・サンジェルマンで復調。94-95シーズンは12得点、翌95-96シーズンは14得点を記録した。だが、マリオ・ザガロが代表監督に就任すると彼の構想からライーは外れ、ジュニーニョレオナルドリバウドへと軸足を移し始める。結局、レオナルド、リバウドらに押されライーの代表生命は事実上潰えた。フランスリーグでプレイしながら、1998年ワールドカップフランス大会には招集されなかった。
ライーは選手としての晩年をサンパウロFCで過ごし、2000年に現役を引退した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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