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ルイス・クレメンテ・ティアント・ベガ(Luís Clemente Tiant Vega , 1940年〔1940年生まれというのには、異説がある。〕11月23日 - )は、キューバのハバナ州マリアナオ(現:首都ハバナの一部)出身の元プロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。愛称は"El Tiante"(エル・ティアント)。 == 経歴 == キューバ出身の父のルイス・ティアント・シニアはアメリカ合衆国のニューヨークにあったニグロリーグチーム、ニューヨーク・キューバンズの左腕投手として活躍し、当地のキューバ人からは英雄視された存在であった。そんな父の1人息子として偉大な父の足跡を追うように野球を始め、利き腕こそ異なるが、父と同じ投手となり、まずは地元キューバのリーグに入団した。 にはキューバのリトルリーグオールスターの選手になるなど早くから頭角を現す。 ラテンアメリカで人材を探していたMLBのクリーブランド・インディアンスの元スター選手、ベト・アヴィラの目にとまり、まずはにメキシカンリーグのメキシコシティ・タイガースへ月給150ドルで移籍した。 夏にアヴィラは古巣インディアンズにティアントを売り込み、同年オフに年俸3万5000ドルで契約を結んだ。〔当時はミッキー・マントルやサンディー・コーファックス等のスーパースター選手がようやく年俸10万ドルに達した時代で、新人選手で3万5000ドルというのは破格というべき金額。〕その頃、キューバ危機が起こり、以後14年はキューバの両親に会うことができなくなってしまった。 マイナーリーグでの活躍の後、7月19日にインディアンズでMLB初登板。デビュー戦ではこの年にリーグ優勝することになるニューヨーク・ヤンキースと対戦し、11奪三振・4被安打の完封勝利を記録。ヤンキースの先発投手はのちにアメリカ野球殿堂入りする左腕投手のホワイティ・フォードであった。この年は後半戦のみの登板で10勝4敗・防御率2.83の成績を残した。 は一時リリーフに転向し、先発は16試合のみであったが、うち7試合は完投。4試合連続完封をマークして12勝11敗8セーブ・防御率2.79。以後に4試合連続完封を記録した投手は他にゲイロード・ペリー()、オーレル・ハーシュハイザー(・5試合)、コリー・ライドル()の3人しかいない。 には258.1回を投げて防御率1.60・9完封・264奪三振・21勝9敗を記録し、最優秀防御率のタイトルを獲得する大活躍。防御率1.60は、現在でもライブボール時代が始まった以後のアメリカンリーグ記録であり、同じ1968年にセントルイス・カージナルスのボブ・ギブソンが記録した1.12に次ぐMLB2位である。被安打率.168は1シーズンの記録としてMLB歴代1位である。7月3日のミネソタ・ツインズとの対戦では延長10回で19奪三振を記録。オールスターゲームにも選ばれた。 にアメリカ合衆国の市民権を取得した。この年は制球難に苦しみ、一転して9勝20敗に終わった。12月10日、グレイグ・ネトルズやディーン・チャンスら4選手との2対4のトレードでツインズへ移籍した。しかし1970年は右肩甲骨の骨折で7勝3敗に終わった。 3月31日にツインズから放出された。アトランタ・ブレーブス傘下のAAA級リッチモンドで好投し、1971年5月15日にボストン・レッドソックスへ移籍した。このシーズンも故障の影響で1勝7敗に終わった。 に15勝6敗・防御率1.91の成績を残し、2度目の最優秀防御率のタイトルを獲得、カムバック賞も受賞した。 からの4年間は安定して20勝近くを記録した。 にはチームの地区優勝に貢献。リーグチャンピオンシップシリーズでも前年まで3年連続ワールドシリーズ優勝を果たしたオークランド・アスレチックス相手に、第1戦で3被安打・1失点に抑えて完投勝利。チームはアスレチックスを3連勝で下してリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではビッグレッドマシンと呼ばれ、当時MLB最強チームと謳われたシンシナティ・レッズと対戦した。先発したフェンウェイ・パークでの第1戦には、特別許可を得た両親が観戦のために渡米し、14年ぶりに再会を果たした。両親の見守る中、0-0の7回裏に自ら安打を放ち、カール・ヤストレムスキーの適時打で先制のホームを踏む。この回チームは一挙6得点を挙げ、完封勝利した。連敗後の第4戦に再び先発し、4点を失うが2勝目を挙げる。レッドソックスは第5戦に敗れるが、第6戦をカールトン・フィスクのサヨナラ本塁打で勝って3勝3敗のタイにおいつき、最終第7戦にティアントが3度目の先発。序盤に3点のリードをもらうが、6回にトニー・ペレスに2点本塁打を喫し、7回にケン・グリフィー・シニアに四球を与え、盗塁を許し、ピート・ローズの同点適時打を浴び、同点とされて降板した。試合は9回に1点を取ったレッズが勝ったが、敗れたにも関わらずティアントはベーブ・ルース賞を受賞した。 翌に4度目のシーズン20勝を達成した。 限りでフリーエージェント(FA)でヤンキースへ移籍した。 は8勝に終わり、はピッツバーグ・パイレーツへ移籍した。しかし2勝に終わり、放出された。 はまずはメキシカンリーグのタバスコ・プラタネロスでプレー。8月になってカリフォルニア・エンゼルスと契約を結んだものの、2勝に終わり、同年限りで現役を引退した。 引退後の5月にレッドソックス野球殿堂入りを果たした。同年に32年前の父親に続き、親子二代でのキューバ野球殿堂入りも果たしている。 また、ベネズエラのウィンターリーグ"リーガ・ベネソラーナ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル"でもプレーしていた。通算成績は37勝・29完投・防御率2.27。1971年にはノーヒットノーランを達成した。にベネズエラ野球殿堂入りを果たした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルイス・ティアント」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Luis Tiant 」があります。 スポンサード リンク
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