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ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム=ゴゾン(Louis-joseph de Montcalm-Gozon サン=ベラン侯爵、Marquis de Saint-Veran 以下モンカルム、1712年2月28日-1759年9月14日)は、フランスの軍人、貴族である。 ==来歴== 1712年、南フランス、ニーム近郊に生まれる。名門貴族の生まれで、9歳で軍隊生活を始める。1727年に少尉となり、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争などに参戦し、1743年、大佐に昇進した。オーストリア継承戦争で負傷して捕虜となったが、解放後に准将となり、邸宅を与えられ、1748年から55年までは豪奢な生活を送った。しかしこの生活も、1756年の春には終わりを告げた。カナダの植民地の士官、ジャン=アルマン・ディエスコがイギリス軍の捕虜となったため、カナダに赴くことになったのである。この時は片腕のフランソワ=ガストン・ド・レビを同行させた。また副官としてルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルも派遣されている。 この当時のカナダ総督は、ピエール・フランソワ・ド・リゴー、ヴォードルイユ=カヴァニャル(以下ヴォードルイユ)だった。ヴォードルイユの父フィリップも総督で、本人はケベック生まれであり、カナダ海軍入隊後、トロワ・リビエール総督、ルイジアナ総督を歴任した。当時のカナダは、国民皆兵制であったため、カナダ軍の指揮権は総督にあったが、非常時でもあり、モンカルムと5個の連隊が駐留する以上、軍の最高指揮官はモンカルムであってしかるべきだった。しかしながら民兵は、カナダ生まれのヴォードルイユに信頼を抱き、一方で、ヴォードルイユもモンカルムに批判的で、モンカルムとフランス軍、ヴォードルイユとカナダ軍の間に、大きな溝ができることになった。赴任の翌年、モンカルムは、本国の陸軍大臣に、ヴォードルイユへの不満を秘密文書で送っていた。一方でヴォードルイユも「フランスの将校は我々を馬鹿にしている」と本国に書き送っている。この事態はその後も改善されなかった。 カナダでは、先住民のゲリラ戦法を起用することが多く、ヴォードルイユは民兵と先住民をよく使った。しかしモンカルムは、ヨーロッパ式の秩序が取れた戦いを理想としており、民兵や先住民は練度が低いと考え、フランスの正規軍を頼りにしていた。また、秘密文書で、民兵や先住民への敵意をむき出しにしたが、一方で彼らから敬意と愛情とを受けたいとも考えていた。 〔Montcalm Louis-Joseph de Canada: A People's History 〕〔アブラーム平原の戦い 〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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