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ルートヴィヒ・トゥイレ : ミニ英和和英辞書
ルートヴィヒ・トゥイレ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ルートヴィヒ・トゥイレ : ウィキペディア日本語版
ルートヴィヒ・トゥイレ[ちょうおん]

ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・アンドレアス・マリア・トゥイレLudwig Wilhelm Andreas Maria Thuille, 1861年11月30日 南部チロル ボルツァーノ - 1907年2月5日 ミュンヘン)はオーストリア出身のドイツの音楽教育家・作曲家。テュイレの表記もあるが、本来はフランス系のユグノーの家系でテュイユと読む。ブラウンフェルスシリングスらと共に、若き日のR.シュトラウスプフィッツナーもその一員とされた「ミュンヘン楽派」の代表者とされる〔長木誠司著 『前衛音楽の漂流者たち』 筑摩書房、1993年、13頁。ISBN 4-480-87231-0〕。
幼児期に両親を喪い、おじを頼ってオーストリアに出る。インスブルックで学問を修め、1877年に終世の友リヒャルト・シュトラウスと知り合う。その後ミュンヘンヨーゼフ・ラインベルガーらに作曲を師事。その後ミュンヘン音楽アカデミーの楽理科ならびに作曲科の教授に就任し、数多くの門弟を育成した。主要な門人に、ヘンリー・ハドリーリヒャルト・ヴェッツ、ヴァルター・クルヴォワジエール、ヘルマン・アーベントロートユリウス・ヴァイスマンヴァルター・ブラウンフェルス、エルンスト・ベーエ、エルネスト・ブロッホクラウス・プリングスハイムらがいる。
1907年ミュンヘン心不全のため45歳の若さで没した。死後出版された音楽理論書『和声学 ''Harmonielehre''』(との共著、日本語版は山根銀二渡鏡子の共訳による。)は多くの版を重ね、非常に影響力があった。
トゥイレは室内楽に献身した多作な作曲家であり、こんにちではピアノと管楽器のための《六重奏曲》作品6(18861888年)や《チェロ・ソナタ》作品22の作曲家として辛うじて知られているにすぎないが、《交響曲ヘ長調》や《ピアノ協奏曲》のような大作のほか、数々のリートや、3つの歌劇も作曲している。このうち最初の《トイアーダンク ''Theuerdank''〔同名の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世による自伝的英雄寓話を原作としている。〕》(1897年完成)は、1897年に、バイエルン王国摂政主催の歌劇作曲コンクールにおいて、ツェムリンスキー作曲の《ザレマ》を抑えて首席に輝いた。2作目の《愛の舞踊 ''Lobetanz''》は1898年にカールスルーエにて初演され、かなり成功した。最後の歌劇は、1901年の《 ''Gugeline''》である。リヒャルト・シュトラウスとの親交や楽劇への献身にもかかわらず、トゥイレはかなり保守的な作曲家のままであり続けた。

== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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