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レッド・ラフィング(Charles Herbert "Red" Ruffing, 1905年5月3日 - 1986年2月17日)は、1930 - 1940年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの野球選手。ポジションは投手。イリノイ州グランヴィル生まれ。右投げ右打ち。1930年代ヤンキースの主力として活躍、通算273勝を挙げた。 ==略歴== ラフィングは少年の時に、生まれ故郷のイリノイ州のコールトンで起きた鉱山事故に遭い、4本の足の指を失っていた。1923年、18歳の時にマイナーのダンヴィル球団からボストン・レッドソックスに入団。1924年にメジャーデビューし8試合に登板する。2年目には37試合に登板して9勝18敗、防御率も5点台だったが、年を追うごとに投球内容はよくなり、5年目の1928年には防御率3.89、自身初めて2桁の10勝を挙げるまでになっていた。だがレッドソックス時代は圧倒的に負け数の方が多く、勝ち星の倍以上負けるという成績が続いていた。 1930年シーズン中にレッドソックスはラフィングをヤンキースにトレードするが、当時ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグらの強力な打線を味方につけたことで、ラフィングの成績は一変する。この年レッドソックスでは0勝3敗に終わったものの、ヤンキースに移ってからは、防御率4点台だったにも関わらず15勝5敗の成績を収める。 ヤンキースに移ってからラフィングの投手成績は更によくなる。1932年には防御率3.09、リーグ最多の190奪三振を挙げ、同年出場したワールドシリーズでも勝ち星を挙げる。1934年に初めてオールスターゲームに選出、1936年から1939年は4年連続で20勝を記録し、シーズン防御率も自身初の2点台まで下がってきていた。ワールドシリーズには1942年までに計7回出場し、1936年を除いて毎回勝利投手になっていた。またラフィングは投手でありながら打撃も得意で、通算打率は.269と野手に引けをとらなかった。1932年8月13日の試合では1-0の完封勝利を収めているが、決勝の1点は自らのホームランによるものだった。 戦争のため1943年と1944年は現役を中断。1945年に復帰したときは40歳で、既に主力としての活躍はできなくなっていた。1947年に現役を引退。通算勝利数は273勝だが、戦争による現役中断がなければ300勝に達していただろうといわれている。 1967年に記者投票によりアメリカ野球殿堂入り。1986年にオハイオ州で死去。ヤンキースは2004年に、ヤンキースタジアム内のモニュメント・パークにラフィングの額を飾るセレモニーを行った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レッド・ラフィング」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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