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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
"ラウディ" ロディ・パイパー("Rowdy" Roddy Piper、本名:Roderick George Toombs、1954年4月17日 - 2015年7月30日)は、カナダ・サスカチュワン州サスカトゥーン出身、アメリカ合衆国オレゴン州ヒルズボロ居住のプロレスラー、俳優。生年は1950年または1952年説もある。 ニックネームはホット・ロッド(Hot Rod)、日本での異名は「狂乱のスコッチ」。スコットランド系カナダ人だが、ギミック上の出身地はスコットランドのグラスゴーとされており、入場曲はバグパイプで演奏され、試合以外の場面では常にキルトスカートを纏っている。体格的には決して恵まれてはいないが、卓越した試合センスとマイクパフォーマンスの巧みさで1980年代のアメリカン・プロレスを代表するトップスターとなった。 == 来歴 == ===NWA時代=== 少年時代スコットランドに移住した経験があり、バグパイプの演奏法もその際に学んだという。その後カナダに戻り、中学時代にボクシングの全カナダ王者となったが、拳を負傷しボクシングを断念。本人によれば15歳でプロレスラーとしてのキャリアをスタート、デビュー戦の相手だったラリー・ヘニングには秒殺されたという。その後NWAのロサンゼルス地区に渡り、ラフファイトを主体とするヒールのスコッチ・ギミックを確立。アメリカス・ヘビー級王座を巡るチャボ・ゲレロとの抗争で注目を浴びる〔。 1977年8月に新日本プロレスに初来日。外国人エース格のスタン・ハンセンやブラックジャック・マリガンのパートナーに起用されてメインイベントにも出場し、アントニオ猪木ともシングルマッチで対戦している。また、バグパイプを吹きながらの入場シーンも話題を呼んだ。その後、覆面レスラーのマスクド・カナディアン(The Masked Canadian)に一時的に変身し、1978年1月27日にロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムにて、その4日前にニューヨークでホセ・エストラーダを破りWWFジュニアヘビー級王者となった藤波辰巳の初防衛戦の挑戦者を務めた〔『1945-1985 激動のスポーツ40年史 (6) プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P161(1986年、ベースボール・マガジン社)〕。同年3月にはマスクド・カナディアンとして新日本プロレスに再来日し、シリーズ開幕戦である3月3日の高崎市大会にて、藤波の凱旋帰国試合の相手も務めている。翌1979年1月11日には本拠地のロサンゼルスでも、藤波のWWFジュニアヘビー級王座に素顔で再挑戦した〔。 その後、オレゴンおよびワシントン地区のパシフィック・ノースウエスト・レスリングに進出、リック・マーテルとのコンビでザ・シープハーダーズとNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を争い、シングルではバディ・ローズやスタン・スタージャックと抗争した。1980年からはジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのミッドアトランティック地区へと転戦し、リック・フレアーやグレッグ・バレンタインとNWA・US王座(後のWCW・US王座、現在のWWE・US王座)を争うライバルとして活躍〔。特にフレアーとは生涯の宿敵・親友となった。以降も同地区を主戦場に、リッキー・スティムボート、ジャック・ブリスコ、ワフー・マクダニエルなどのトップスターと抗争。1983年5月には全日本プロレスに来日、6月3日に旭川市総合体育館にて、ディック・スレーターと組んでジャイアント馬場とジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦している。 1980年代初頭にはジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにてカラー・コメンテーターやインタビュアーも兼任、トークの才能を発揮した。ジョージアではトミー・リッチやダスティ・ローデスと抗争し、ザ・グレート・カブキとも共闘していたが、後にベビーフェイスのポジションに回り、アブドーラ・ザ・ブッチャー、マスクド・スーパースター、イワン・コロフらと対戦した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロディ・パイパー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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