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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ヴァルター・ラーテナウ(Walther Rathenau, 1867年9月29日 - 1922年6月24日)は、ドイツの実業家、政治家、作家。ヴァイマル共和国初期に外相を務め、ソビエト連邦とラパッロ条約を締結したが、極右テロ組織に暗殺された。 == 経歴 == === 実業家・文筆家 === のちにAEG(「一般電気会社」)の共同設立者となるユダヤ人実業家エミール・ラーテナウの長男として、ベルリンに生まれる。弟と妹が一人ずついる。1886年からシュトラスブルク大学およびベルリン大学で物理学、哲学、化学を学び、博士号を取得。1890年からはミュンヘン工科大学で機械工学を学んだ。当初彼は父親の仕事を継ぐことを嫌って芸術家、軍人、外交官への道を目指していたが、結局父親の仕事を受け継ぎ、1893年からAEG社によるビッターフェルトやラインフェルデンでの工場設立を担当した。1899年からはベルリンの商社の経営に参画、1912年に同社の社長となる。AEG社監査役として1904年以降80社もの監査役を兼ねた。 ドイツ経済界で大きな役割を演じていたことは、彼がユダヤ系ドイツ人の有力経済人からなる「友愛協会」の会員に迎えられたことからも窺える。電機業界が不況を迎えた際はカルテル戦略で乗り切る手腕を見せ、1914年に第一次世界大戦が始まると、軍需物資供給組織の指導者として適役とみなされるようになる。1915年に父が死んだが、最高顧問だった彼はAEG社の後継会長には就任せず、父の共同経営者にその地位を譲り、特権と「AEG総裁」という肩書きのみを受けた。 こうした実業家としての反面、彼は資本主義・物質主義万能の世の中に批判的な見解も持っており、文学によってそれを改善したいと考えていた。ジャーナリストのマクシミリアン・ハルデン(マックス・ハーデン)を支援してその週刊誌発行を助け、また同誌にたびたび寄稿した。最初の寄稿は1897年の「聞け、イスラエルよ」という論文で、近代のユダヤ人に対する異議申し立てだった。政治的にも倫理的にも、ヴィルヘルム2世時代のショーヴィニズムに反対の立場だった。友人である作家ゲアハルト・ハウプトマンを通じて作家のグループに加わり、「時事批判について」「精神の機構について」などの本を出版し、「精神の王国」と表現されるその理想主義的な世界観を表明した。またリベラルな市民の政治参加を目指し、自らもドイツ帝国の外交政策、特に植民地政策に影響を及ぼそうとした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴァルター・ラーテナウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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