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ヴァンダル戦争(ヴァンダルせんそう、533年 - 534年)は、北アフリカ(現在のチュニジアとアルジェリア東部)において東ローマ帝国とヴァンダル王国との間で行われた戦争である。この戦争はユスティニアヌス1世による西方再征服戦争の最初の戦いであり、東ローマ帝国軍の速やかなる勝利に終わった。ヴァンダル王国は滅亡し、北アフリカにおけるローマ帝国の支配が再建された。 == 背景 == 5世紀の西ローマ帝国騒乱期にヴァンダル族はライン川を渡ってガリアに入り、さらに同盟部族のアラン族とともにイベリア半島にまで侵入していた〔クローウェル(2009),pp.71-78.〕。429年、ヴァンダル王ガイセリックは皇帝と反目していたアフリカ総督(''vicarius'')ボニファティウスの招きに応じて、彼の民とともに海峡を越えて北アフリカに進出した〔Bury (1923), Vol. I p.246.;クローウェル(2009),pp81-82.〕。現地のローマ軍はボニファティウスの反乱と432年の彼の死によって弱体化しており、ヴァンダル族は容易くローマ領を占拠できた。439年にカルタゴが占領され、続く20年間のうちにガイセリックはアフリカ管区だけでなく、強力な海軍を用いてシチリア、サルデーニャ、コルシカそしてバレアレス諸島をも手中に収めた〔Bury (1923), Vol. I pp.254-258.〕。 続く数十年間、熟練したヴァンダル海軍は地中海全域を跳梁し、455年にローマ劫掠を行い〔クローウェル(2009),pp94-95.〕、そして468年にはバシリスクス率いる東ローマ艦隊を撃滅している〔クローウェル(2009),p.96.〕。 この敗北とヴァンダル海賊の跋扈は東ローマ帝国を酷く痛めつけ、さらにヴァンダル族の宗教政策が関係を悪化させた。ヴァンダル族は熱烈なアリウス派であり、カトリック教徒の迫害を行った〔クローウェル(2009),pp.84-85.〕。だが、ローマ人にはヴァンダル王国に対して戦争を仕掛ける力がなかったため(しばしば緊張が発生したが)「永続的な平和」と呼ばれる平和的な関係を保つことになった〔Bury (1923), Vol. II p.125.〕。 この状況は西方領土回復を望むユスティニアヌス1世が即位することにより変わることになる。 当初、ユスティニアヌス帝はペルシアとのイベリア戦争に忙殺されており、一方、ヴァンダル王国でもカトリックに寛容で親ローマ派のヒルデリック(母は西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の皇女)が523年に即位しており、東ローマ帝国との友好的な関係を築いていた〔マラヴァル(2005),p.72.〕。だが、彼の政策はヴァンダル族の中から反発を受けており、ムーア人との戦いに敗れたことで、530年にクーデターが起き彼の従兄弟のゲリメルによって廃位されてしまう〔マラヴァル(2005),p.72-73.〕。ユスティニアヌス帝はヒルデリックの復位を要求したが、ゲリメルはこれを拒絶した〔マラヴァル(2005),pp.72-73.;松谷(2007),pp.144-146.〕。 ユスティニアヌス帝はゲリメルに対する懲罰遠征を決め〔マラヴァル(2005),p.73.〕、532年にペルシャとの和平を成立させると遠征軍の編成に着手した〔Bury (1923), Vol. II p.126.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴァンダル戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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