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ギュンター・ヴァント(Günter Wand, 1912年1月7日 - 2002年2月14日)はドイツ・ラインラント地方のエルバーフェルト(現在、エルバーフェルトはバルメンと合併してヴッパータールと改称し、その一部となっている)に生まれたドイツ人指揮者。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナーといったドイツ音楽を得意とする一方、ストラヴィンスキーやメシアンのような現代音楽作品も積極的に演奏した。 == 生涯 == ギュンター・ヴァントはミュンヘン音楽院とケルン音楽大学に学んだ。後年における彼の演奏活動を考える上で興味深いのは、当時ミュンヘン音楽院の院長を務めていたジークムント・フォン・ハウゼッガーに会い、強い印象を受けていることである。ハウゼッガーはブルックナーの交響曲を原典版で演奏した初めての指揮者であり、一つの演奏会の中でレーヴェによる改訂版と原典版の両方を指揮するという試み(演奏されたのはブルックナーの交響曲第9番)も行ったことがあるという。 1932年、ヴァントはヴッパータール歌劇場のコレペティトール(オペラなどの独唱者にピアノで下稽古をつける役職)となった。その後、1934年にはアレンシュタイン(現ポーランドのオルシュティン)歌劇場でカペルマイスターとなる。この環境は彼にとって満足のいくものではなかったが、ナチ党員ではなかった彼にはなかなか良いポストが見つからなかった。しかし、1938年のデトモルト州立歌劇場への転出が彼に転機をもたらす。この劇場は規模などの点では前の任地とさほど変わらなかったが、当地はラインラントであり、ケルンに近かった。ある日の晩、ヴァントが指揮する「魔笛」を聴いたケルンのエージェントが彼のもとを訪れ、ケルン歌劇場の第一カペルマイスターになるよう要請した。こうして彼は遂にメジャーな地位を獲得し、1974年のケルン市音楽総監督辞任に至るまでこの街を拠点として活動することになるのである。1946年、彼は同市の音楽総監督に就任し、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団、ケルン放送交響楽団等を指揮して多くの録音を残した。中でも、後者と録音したブルックナー交響曲第5番のレコードはドイツ・レコード賞を獲得し、この後続いて録音されたブルックナーの交響曲全集によって、彼はケルンの外にも広く知られるようになる。 ケルンを去った後は北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者に招聘され(1982年)、同楽団にハンス・シュミット=イッセルシュテット以来の黄金期をもたらした。同時に、ここでの活動が彼の楽壇に於ける地位を決定的なものにしたのである。 彼は1991年に首席指揮者の地位を退いた後も同楽団への客演を続け、終生、同楽団とは親密な関係にあった。 彼は、1つの楽団に集中しない現代の指揮者の在り方に対して批判的であって客演は多くなかったが、最晩年にはベルリン・フィル、ミュンヘン・フィル、ベルリン・ドイツ交響楽団等に客演して見事な演奏を披露した。 2002年1月、スイスの自宅にて転倒、右腕を脱臼。この後体調を崩し、2月14日に逝去した。 なお、カラヤンほどではなかったにせよ、かなりのカーマニア・スピード狂であったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ギュンター・ヴァント」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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