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三宅御土居 : ミニ英和和英辞書
三宅御土居[みやけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [たく]
 【名詞】 1. house 2. home 3. husband 
: [ご, お, おん, み]
  1. (pref) honourable 2. honorable 
: [つち]
 【名詞】 1. earth 2. soil 

三宅御土居 ( リダイレクト:三宅御土居跡 ) : ウィキペディア日本語版
三宅御土居跡[みやけおどいあと]

三宅御土居跡(みやけおどいあと)は、島根県益田市三宅町にある城館跡。同市七尾町・大谷町にある七尾城(益田城)とともに国の史跡益田氏城館跡」に指定されている。
== 概要 ==
三宅御土居は、平安時代末期に石見国国司として下向して建久年間に益田荘に本拠を移した益田氏の居館〔その他、上久々茂土居(益田市久々茂町)や大谷土居(益田市大谷町)が益田氏の居館跡と推定されており、益田川の上流から下流へと徐々に移転していったと考えられている。〕。また、その詰め城として七尾城が築かれた。築造者や築造時期などははっきり記録されていないが〔現地説明板「国史跡 益田氏城館跡 三宅御土居跡」〕、通説では益田兼見によって室町時代応安年間〔南北朝時代、益田氏の宗家は北朝方であった。〕(1368年-1375年)に築かれたとされる。益田川水運(益田本郷地域への流通)や農業用水を管理するために、益田川下流の川沿いに築かれたと考えられている〔益田氏城館跡「三宅御土居」 - 益田市〕。
戦国時代後期、毛利元就と対立することとなった益田藤兼は七尾城に本拠を移したが、毛利氏と和睦してその傘下に組み込まれると、藤兼の子・益田元祥は三宅御土居に戻っている〔。元祥は三宅御土居を大改修したとされるが、関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏の周防長門への移封に伴って元祥も長門国須佐に移り、三宅御土居は廃城となった。
江戸時代初期に、益田氏旧臣の木村平左衛門尉祐光が同所に泉光寺を創建したため、近現代の都市開発などによる遺構の破壊を免れた〔〔施工実績 松龍山泉光寺 (「三宅御土居」保存のための移転工事) - 株式会社森本建設〕。
その後、三宅御土居跡と七尾城跡は、昭和40年代に県の史跡となる。昭和58年7月豪雨で益田川の氾濫による被害を受けた益田市は、新たな都市計画を進める中で史跡の重要性も考慮し、三宅御土居跡の発掘調査結果を復元した「おどい広場」などが整備されることとなった〔益田氏城館跡国史跡指定 - 益田歴史を活かしたまちづくりの会〕。平成16年(2004年)、七尾城とともに国の史跡の指定を受ける。なお、前述の泉光寺は、三宅御土居跡の発掘調査・史跡整備に伴って平成20年(2008年)に移転している〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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