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三島由紀夫 : ミニ英和和英辞書
三島由紀夫[みしま ゆきお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [よし]
 【名詞】 1. reason 2. significance 3. cause 
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

三島由紀夫 : ウィキペディア日本語版
三島由紀夫[みしま ゆきお]

三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年大正14年)1月14日 - 1970年昭和45年)11月25日)は、日本小説家劇作家随筆家評論家政治活動家皇国主義者。血液型はA型〔斎藤銀次郎教授「慶応大学病院法医学部 解剖所見」(1970年11月26日)。 〕〔「第一章」()〕。戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である〔「第一回 三島由紀夫の誕生」()〕〔特集まるごと「ノーベル文学賞 明らかになる“秘話”」 (NHK News Web、2015年3月31日)〕。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたTV番組に初めて出演した日本人でもある〔「三島由紀夫」()〕。
満年齢と昭和の年号が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い〔佐伯彰一「三島由紀夫 人と作品」(新潮文庫版『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』解説、1973年12月執筆)〕〔「不思議な共感」「三島由紀夫の生まれ育った時代」()〕〔「はじめに」()〕。
代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴〔「第六回 舞台の多彩の魅力」()〕〔「各項〈作品解説〉」()〕。
晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁バルコニークーデターを促す演説をした後、割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与え、新右翼が生れるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を及ぼした〔「第一部 あの“狂乱”の時代を振り返って」()〕〔「第一章 三島の自決はどう捉えられてきたか」()〕〔「II 構造と反復」から「II 中上健次と三島由紀夫/あるいはオリュウノオバと本多邦繁」()〕(詳細は三島事件を参照)。
== 生涯 ==

=== 出自 ===
''家族・親族も参照のこと。''
1925年(大正14年)1月14日東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)において、父・平岡梓(当時30歳)と母・倭文重(当時19歳)の間の長男として誕生〔。体重は650(約2,400グラム)だった〔『仮面の告白』(河出書房、1949年7月)。1巻2000年11月〕。「公威」の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の恩人で同郷の土木工学者古市公威にあやかって付けられた〔「東文彦宛ての書簡」(昭和16年4月11日付)。、〕〔「第二章」()〕。
家は借家であったが、同番地内で一番大きく、かなり広い和洋折衷の二階家で、家族(両親と父方の祖父母)の他に女中6人と書生下男が居た。祖父は借財を抱えていたため、一階には目ぼしい家財はもう残っていなかった〔「II」(オール讀物 1987年5月号)。〕。兄弟は、3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が生れた〔。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた〔「祖先」()〕。岸信介我妻栄三輪寿壮とは一高、帝大の同窓であった〔「第二章 幽閉された少年」()〕〔「わが友・平岡梓」()〕。
母・倭文重(しずえ)は、加賀藩藩主前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父親(三島の外祖父)は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者橋健三〔〔「II 三島由紀夫の祖先を彩る武家・華族・学者の血脈」()〕。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村上富木(現・兵庫県加古川市志方町上富木)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井夏子と結婚。福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した(後に無罪判決)〔「第一章 原敬暗殺の謎」()〕。
祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれ、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えた。夏子の祖父は江戸幕府若年寄の永井尚志〔〔。なお、永井岩之丞の同僚・柳田直平の養子が柳田国男で、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、夏子の家庭とは早くから交流があった〔柳田国男『故郷七十年』(のじぎく文庫 神戸新聞総合出版センター、1959年11月。1989年4月)。〕。
作家・永井荷風の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる。公威は、荷風の風貌と似ている父・梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいた〔。ちなみに、祖母・夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた〔〔「III」(オール讀物 1987年6月号)。〕。
祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代に渡って同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であった。江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、三島家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三島由紀夫」の詳細全文を読む




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