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三菱MC-20 : ミニ英和和英辞書
三菱MC-20[みつびし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
三菱 : [みつびし]
 (n) Mitsubishi (company)

三菱MC-20 : ウィキペディア日本語版
三菱MC-20[みつびし]

三菱MC-20(みつびしMC-20)は、三菱重工業が開発・製造した日本旅客機
大日本帝国陸軍軍用輸送機である一〇〇式輸送機(キ57)の民間転用型であり、中島AT-2とともに戦前中の日本における国産旅客機として使用されたほか、中華民国満州国にも輸出されて使用された。 
== 概要 ==
中島飛行機九七式輸送機(中島AT-2)に代わる陸軍新型輸送機開発の命令を受け、双発単葉・引込脚の近代的な重爆撃機である九七式重爆撃機一型(キ21-I)をベースに、エンジンと主翼の設計を流用し胴体を再設計して完成させた双発輸送機(旅客機)である。同時期に作られた日本の輸送機・旅客機の中では特に優れた性能を誇り、高速爆撃機であった九七重爆の特性を受け継ぎ快速性能はアメリカのベストセラー旅客機ダグラス DC-3C-47輸送機)よりも上であった。
1940年(昭和15年)に完成した本機は軍用機としての名称を一〇〇式輸送機といい、太平洋戦争初期のパレンバン空挺作戦においては陸軍落下傘部隊の輸送を行うなど、陸軍主力輸送機として戦争の全期間を通じて活躍した。
MC-20はその民間型の名称で、1940年9月に羽田で完成披露式が行われた。これは軍用民用通算の第4号機にあたり、大日本航空が取得して「妙高」と名付けられたが、同年12月28日、試験飛行中に東京湾千葉県姉ヶ崎沖)に墜落し、搭乗していた14名全員が死亡するという事故を起こしている。墜落機は海軍掃海艇により引き上げられ、調査の結果昇降舵のフラッターが原因と推測されてバランスウェイトの改修が行われた。
本機は大日本航空のほか、満州航空中華航空チャイナエアラインとは別企業)といった航空会社や、朝日新聞読売新聞大毎東日新聞などでも社有機として使用された。特に朝日新聞の1号機「朝雲」号は機内に通信機材や暗室を完備し、室内には机やソファを置くなどの装備を施して「空飛ぶ編集室」と呼ばれた。なお、終戦後のいわゆる緑十字飛行に利用されたのはほとんどが本機か一〇〇式輸送機であり、YS-11が飛行するまで終戦後飛行した最後の国産旅客機となった。
1942年(昭和17年)には一〇〇式輸送機二型(キ57-II)と同じく、エンジンの換装等を行った二型であるMC20-IIが登場した。
製造は三菱において軍用民用合わせて一型101機、二型406機の合計507機製造された。生産は1945年(昭和20年)1月以降、日本国際航空工業に移管されたが、移管後の生産数は不明とされている。この製造数は日本の輸送機のなかで最多である。
また、九七式重爆の武装や装備を取り外した上で大日本航空が払い下げを受けた機体にMC-21というものがあった。こちらは貨物輸送に使われたが、8席の乗客を収容できるようにした機体もあったという。読売新聞でも4機このMC-21を使用した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三菱MC-20」の詳細全文を読む




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