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三谷 大和(みたに やまと、1971年1月16日 - )は、日本のプロボクサー。戸籍名・松岡 大和(旧姓・三谷)〔最初の世界戦で敗れた際、父親から勘当され、離婚した母親の姓に変えさせられた。〕。岡山県倉敷市出身。現役時代は三迫ボクシングジム所属。元日本スーパーフェザー級王者、元OPBF東洋太平洋スーパーフェザー級王者。岡山県山陽高等学校、早稲田大学卒業(プロデビュー後も大学に通い、教員免許を取得している)。 WBA世界スーパーフェザー級王者崔龍洙と3度の激闘を繰り広げた(3戦3敗)。 現在は、千葉県八千代市にある「三谷大和スポーツジム(三谷大和ボクシングジム)」会長。 == 来歴 == 空手家であった父親の影響で6歳で空手を始め、9歳からボクシングを始めた。 アマチュアでは高校時代の1988年にインターハイで優勝(当時から渡辺雄二と親友)し、特別推薦枠で早稲田大学人間科学部に進学。大学時代の1989年・1990年・1992年に全日本選手権優勝。また1989年に世界ジュニア選手権、1990年にアジア大会、1991年に世界選手権に出場し、1992年には国体にも優勝を収めて104戦91勝(62KO・RSC)13敗の実績を残した。 フジテレビをバックにつけた三迫ボクシングジムに1,000万円という契約金で入門(史上最高額として新垣諭、山口圭司、上原康恒、古口哲らが並ぶ)。在学中に京浜川崎ジムに下宿するなど吉川昭治会長の世話になっていたため、吉川会長から三谷、三迫会長、フジテレビに対し損害賠償を求め、民事訴訟を起こされた。京浜川崎ジムには後に三谷のライバルとなる畑山隆則が当時練習生で在籍。 1993年8月30日、プロデビュー(6回戦で5回KO勝ち)、当時の担任コーチは自身と同じアマ全日本王者から三迫所属でプロ入りの三原正。 1994年10月10日、5戦目。OPBF東洋太平洋スーパーフェザー級王者崔龍洙()とノンタイトル10回戦を行い、0-3の判定負け。プロ初黒星。 1995年6月12日、7戦目。日本スーパーフェザー級王者鈴木敏和(/神戸)に挑戦し、3-0の判定勝ちで王座獲得。同王座は防衛戦を行うことなく返上した。 1995年10月9日、8戦目でOPBF東洋太平洋スーパーフェザー級王座決定戦出場。ノリー・ジョッキージム()と対戦し、8回TKO勝ちで王座獲得。同王座は防衛戦を行うことなく返上した。 1996年1月27日、9戦目で世界初挑戦。前年10月にWBA世界スーパーフェザー級王者となった崔龍洙と母校・早稲田大学記念会堂で再戦し、0-3(3者とも114-115)の僅差判定負けで世界王座獲得ならず(崔は初防衛成功)。9回にバッティングで減点1となっていた〔ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年、231頁〕。その後、10月13日に崔に再挑戦するが、最終・12回にダウンを奪われるなどして0-3(114-115、113-115、112-115)の判定負け。世界王座獲得ならず〔。 1997年11月8日、OPBF東洋太平洋スーパーフェザー級王座決定戦でホセリト・リベラ()と対戦し、12回KO勝ちで王座を獲得した。 1998年3月2日、平仲信敏(/沖縄ワールドリング)と対戦し、3-0の判定勝ちで初防衛に成功した。 1998年6月8日、2度目の防衛戦で長嶋健吾(/18古河)と対戦し、判定負けで王座から陥落。この試合を最後に引退した。 三迫ジムのトレーナー、早稲田大学職員などを経て、2002年9月、千葉県千葉市花見川区千種町に「三谷大和スポーツジム」をオープン(倉庫にリングという簡素なジムであった)。 2004年7月、ジムを千葉県八千代市八千代台東1丁目のミニストップ八千代台東一丁目店跡地(八千代台駅徒歩5分)に移転。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三谷大和」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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