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下河辺荘(しもこうべのしょう)は、下総国葛飾郡に置かれた荘園。その荘域が広大であったうえ、江戸時代以後の利根川などの河川の流路変更によって、現在は、茨城県古河市・五霞町、千葉県野田市、埼玉県加須市・久喜市・幸手市・杉戸町・春日部市・越谷市・松伏町・吉川市・三郷市の各市町にまたがる地域に及んでいる。 == 概要 == 利根川東遷事業以前のこの地域は利根川(古利根川)・荒川・渡良瀬川・太日河・隅田川(古隅田川)が入り組んだ地域であり、これらを介した水運が盛んであった。荘内には前林・河妻・赤岩・春日部・桜井の5郷と平野村があったことが知られている。 平安時代末期に藤原秀郷の子孫である開発領主下河辺氏が源頼政を仲介して寄進したことによって成立したとされているが、その寄進先については鳥羽法皇・美福門院・八条院(鳥羽法皇と美福門院の娘)と諸説ある。遅くても安元年間(1170年代)には「八条院領」の中に組み込まれていた。 治承4年(1180年)、下河辺行平は源頼朝に従って同荘の荘司職を安堵され、続いて文治4年(1188年)に関東申次を務めていた帥中納言吉田経房が地頭職を与えられる(『吾妻鏡』文治4年6月4日条)。その後、建長5年(1253年)に鎌倉幕府が下河辺荘の堤防修築を行っている。その後、北条氏が衰退した下河辺氏を御内人に取り込んで支配権を獲得、一部を称名寺に寄進している。 鎌倉幕府滅亡後は一時小山氏の支配下に入るが、小山氏の乱をきっかけに鎌倉公方足利氏満が鎌倉府御料所に編入する。享徳の乱が発生すると、鎌倉公方足利成氏は享徳4年(1455年)に下河辺荘内の古河城に移って「古河公方」と称し、室町幕府や関東管領・堀越公方と対抗関係に入った。和睦成立後も古河公方は鎌倉に拠点を戻すことなく、下河辺荘は古河公方の基盤として機能していくことになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「下河辺荘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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