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兩班(りょうはん、〈ヤンバン・韓国〉、〈リャンバン・北朝鮮〉)は、高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った身分階級のこと。士大夫と言われる階層とこの身分とはほぼ同一である。なお、朝鮮半島の身分制度は甲午改革後に廃止された。 李氏朝鮮王朝時代には、良民(両班、中人、常人)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。現在の韓国においても李氏朝鮮の両班のように志操の高い精神構造を両班精神、両班意識などと呼んだりする。 しかし、高麗時代に両班が作られた時は身分階級ではなく官僚制度を指す言葉だった。 時代が下るにつれ両班の数は増加し、李氏朝鮮末期には自称を含め朝鮮半島の人々の相当多数が戸籍上両班となっていた。現在の韓国人の大多数が両班の血を引くと自称しているが、族譜を見れば大体分かる。 == 両班の始まり == 高麗が国家を建設する時、唐・宋の官僚制度を参考にしながら、文臣(文班)と武臣(武班)の2つの班からなる官僚制度を採用した。2の事を両と言う字でも表すためこの2つの班を会わせて両班と呼んだ。朝儀に際して両班が東と西に並んだことから、東に列した文班を東班、西に列した武班を西班とも称した〔文班と武班の区別あり、又文班を東班と称せり、武班を西班とも称し、是れ朝儀に際し文班が東に列し、武班は西に列しが為なり。(『支那満洲朝鮮案内』 、東洋協会、27頁) 〕。 文班(文臣、東班)は、958年から科挙制度を採用し、科挙の合格者を官吏として登用する制度を取った。しかし、五品以上の上級文臣の子は自動的に官吏になれる蔭叙が行われ、当初から上級官僚の貴族化を促していた。しかし地方では新羅以来の郷里という制度が残され、官僚が入り込めない土着した勢力がその地方を束ねていた地域も多くあった。この郷里達は多くの官僚を中央にも送り出していた。これらの層が高麗の門閥貴族を形成する。 武班(武臣)は、995年ごろに六衛(軍団)が整理されたのを起源とする。それよりやや遅れて禁軍である二軍が成立される。この武班は基本的に世襲制もしくは兵士からの選抜制になっており、後の軍隊の私兵化の温床となることになった。 両班には国から田地と柴地が支給されており(田柴科制と言う)、官僚機構を指す言葉だった。高麗時代の両班はそれ以降の両班とはやや意味合いが異なる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「両班」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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