|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 中 : [なか] 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among ・ 言 : [げん] 【名詞】 1. word 2. remark 3. statement ・ 禅 : [ぜん] 【名詞】 1. Zen (Buddhism) ・ 師 : [し] 【名詞】 1. (1) teacher 2. master 3. one's mentor 4. (2) the Reverend
増盛(ぞうせい、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧侶。中納言平知盛の次男〔『系図纂要』平氏一。〕。父知盛の官職に因み、中納言禅師〔『平家後抄』 上 212頁〕または中納言律師〔『系図纂要』同上項。〕と呼ばれた。知盛の正室は治部卿局であるが、増盛の母が治部卿局であるかどうかは定かでない〔。 == 経歴 == 政権の座にある平家一門の子弟として生まれるが、早くから出家させられていたため、寿永2年(1183年)の一門都落ちの際は、知盛に寺に留められ、あえて伴われなかったと推定されている〔。治承・寿永の乱の過程で父の知盛や兄の知章は落命し、また弟の知忠は建久7年(1196年)に挙兵計画が露見して鎌倉幕府側に誅殺される。 しかし、経緯は不明ながら増盛自身は罪を問われることはなく、建久6年(1195年)には上洛していた源頼朝が鎌倉に下向する際、同じ平家一門出身の忠快とともに一行に加えられた〔『吾妻鏡』建久6年6月25日条。〕〔『平家後抄』 下 82頁〕。その後、頼朝の父である義朝の菩提寺として幕府の南向かいに造営された勝長寿院に居住している〔同、建久6年9月28日条。〕が、どういう事情で頼朝が知盛の子である増盛を勝長寿院に居住させたのかは全く不明である〔〔ただし、建久年間には頼朝の平家に対する敵愾心は薄れており、増盛の例の他にも、平家の家人でも望む者には幕府への仕官を許したり、平維盛の子六代丸を助命したりしている(『平家後抄』 下 223頁)。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「増盛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|