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久世 竜(くぜ りゅう、明治41年(1908年)1月19日 - 1985年1月5日)は、日本の殺陣師・俳優。俳優活動時の旧芸名は岬 弦太郎(みさきげんたろう)。 == 来歴 == 明治41年1月、愛媛県東宇和郡野村町高瀬に生まれる。 叔父の経営する神戸の久保田商会で襦子の裁縫箱を輸出する業務を見習っていたが大正11年ごろ、「いやなことがあって」これを辞め、京都へ出る。これが14歳だか15歳だか、久世本人の記憶にも定かでないという。 尾上松之助の忍術映画や外国の連続ものの活動写真を休みのたびに観ていて、「役者になろう」と決心。まず長谷川伸を訪ね、牧野省三に紹介を受ける。が、マキノ監督は「やめとけ、役者になる顔じゃない」とぴしゃりと言い、「仕事の世話をしてやるから、当分俺のところで飯食って遊んどけ」と久世少年を居候させてくれた。 この頃、監督独り立ちしていたマキノ雅弘のロケに随行。「一円持たされて監督の煙草を買いに行くのが仕事のようなものだった」といい、愛煙家の監督はお釣りの三十銭のことはすぐ忘れるので、たまったお釣りが小遣いだった。 昭和2年2月、日活大将軍撮影所の研究所へ役者として入社。マキノの口利きのおかげで月給も二十五円と破格だったが、斬られ役専門だった。真冬に水に飛び込むと一円五十銭、春と秋が一円、夏でも三十銭の手当てがあり、「稼ぎまくった」という。 昭和8年、初めてマキノ雅弘に「殺陣をつけろ」と言われ、月形龍之介に殺陣をつけ、以来昭和26年まで、ずっと月形の殺陣をつけた。「と言っても大先生と小僧っ子ですからね。言われたとおりに考えただけです」と語っている。 昭和24年ごろ、マキノ雅弘の家に居候したことがあり、久世はマキノ監督からカメラアングルや時代考証、助監督やカメラマンの勉強をさせられた。「あれが大いに助かりました」。 昭和26年、マキノ正博とともに新東宝に移り、『弥太郎笠』ほかで鶴田浩二に殺陣をつける。さらに日活に移り、『木曾路の鴉』ほかを担当。 このあと、「東映に行く」というマキノ監督についていこうとしたが、牧野から「東映には先輩もいてやりにくいだろう。東宝でやれ」と言われ、東宝に移る。現代劇に注力していた東宝では『次郎長三国志』など、僅かの作品でしか殺陣師として登場しない。 昭和33年、『隠し砦の三悪人』に武将役で出演。初顔合わせの黒澤明監督から「キミ殺陣師だそうだけど、これ(この映画)の立ち回り全部残ってるから見ろ」と言われ、手数五百以上の複雑な立ち回りを見たが、久世のイメージとは違った。黒澤は「キミやってみろ」と言ったが、久世は「居合抜きの名人の某範士の練り上げた立ち回りは変えられない」と断ったという。 黒澤も久世も口に出すと後に引かない性格で、ついに柴山撮影所長が乗り出して、久世の殺陣が実現することとなった〔来歴ここまで、『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』「殺陣を変えた異才・久世竜」(サンケイ出版)より〕。 以後、黒澤明・稲垣浩・岡本喜八らが演出した東宝時代劇で殺陣師として活躍。『椿三十郎』や『侍』、『風林火山』などの作品では、斬新かつダイナミックな立ち回りを付け、五社英雄・湯浅謙太郎と共に殺陣に変革をもたらした。これらの作品に主演した三船敏郎の信頼も厚く、東宝から三船プロに移り、「三船プロ久世七曜会」を率いて後進の殺陣師の指導にも当たった。弟子に田中浩・宇仁貫三・上西弘次・久世浩などがいる。 岬 弦太郎で活動を始めたがその後、殺陣師兼俳優となる。戦時中、映画会社の統合合併に伴い大映に移り、久世 竜に改名した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久世竜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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