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久米 譲(くめ ゆずる、明治32年(1899年)11月29日 - 昭和20年(1945年))は、日本の俳優である〔久米譲 、''jlogos.com'', エア、2012年11月13日閲覧。〕〔久米譲、日本映画データベース、2012年11月13日閲覧。〕。本名折口 虎次(おりくち とらじ)、初期芸名浅尾 工女次郎(あさお くめじろう)、粂西 譲(くめにし ゆずる)〔〔。粂 譲(くめ ゆずる)とも表記される〔。 == 来歴 == 1899年(明治32年)11月29日、東京府東京市浅草区芝崎町(現在の東京都台東区西浅草)に生まれる〔。1908年(明治41年)、新派の俳優・柴田善太郎に入門し、子役としてのキャリアを始める〔。1909年(明治42年)には、歌舞伎俳優・浅尾工左衛門の門下に入り、浅尾 工女次郎(あさお くめじろう)を名乗り、女形を中心に演じる。映画への出演は1920年(大正9年)に国際活映(国活)入社して以来で、同社巣鴨撮影所で監督の吉野二郎に認められたとされるが、当時の出演作についての記録は残っていない〔〔。 1922年(大正11年)、吉野が国活を離れて松竹蒲田撮影所に移籍した際に、久米も行動をともにする〔。同年4月16日に公開された、澤村四郎五郎が主演した吉野の監督作『実録忠臣蔵』に浅尾工女次郎の名で出演、多門伝八郎を演じた〔。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で撮影所が崩壊、京都の松竹下加茂撮影所に蒲田の製作機能が移転し、久米も京都に移動するが、下加茂で最初に出演した記録は、翌年1924年(大正13年)5月11日に公開された、枝正義郎監督の『恋の友禅 鶴吉と其兄』であった〔。同年10月11日に公開された大久保忠素監督の『難波の福』以降、粂西 譲(くめにし ゆずる)と改名する〔〔。1925年(大正14年)6月22日に公開された清水宏監督の『激流の叫び』を最後に、下加茂から蒲田に復帰し、久米にとっての復帰第1作、大久保忠素監督の『和蘭蛇お滝』をもって、久米 譲(くめ ゆずる)と改名する〔〔。 1926年(大正15年)3月6日に公開された、吉野二郎監督の『孔雀の光 第一・二篇』を最後に松竹キネマを退社し、実演の巡業を行う〔〔。同年秋までには日活大将軍撮影所に入社、最初の出演記録は、同年10月15日公開、池田富保監督の『水戸黄門』であり、丹波屋佐六を演じた〔〔。同年11月15日公開の『長恨』、翌1927年10月14日公開の『下郎』といった伊藤大輔の監督作では、主演俳優を助演する大きな役を務めている〔。 1941年(昭和16年)の初めごろまでに新興キネマに移籍、同年5月8日に公開された吉田信三監督の『羅生門』に出演、「隠陽の博士阿部の晴明」(安倍晴明)を演じた〔〔。 1942年(昭和17年)1月14日に公開された森一生監督の『大村益次郎』では、江藤新平を演じた〔〔。同年1月27日、戦時統合によって大映が設立され、新興キネマは日活京都撮影所等と合併し、久米は、日活京都が改称した大映京都撮影所に継続入社、同年5月14日公開、牛原虚彦監督の『維新の曲』に早速出演し、福岡藤次(のちの福岡孝弟)を演じている〔〔。同年12月27日に公開された池田富保および白井戦太郎の共同監督による『富士に立つ影』に出演したのが、最後の出演記録である〔。 1945年(昭和20年)、正確な月日は不明であるが、死去した〔。45歳没。肺病(結核)を病んでいたようである〔キネマ旬報社、p.493.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久米譲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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