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乙毗沙鉢羅葉護可汗 : ミニ英和和英辞書
乙毗沙鉢羅葉護可汗[おつ, きのと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おつ, きのと]
  1. (adj-na,n) 2nd in rank 2. second sign of the Chinese calendar
: [はち]
 【名詞】 1. a bowl 2. a pot 3. a basin 4. a flowerpot 5. a crown 6. a brainpan 
: [よう, は]
 【名詞】 1. leaf 
: [か]
  1. (n,n-suf) passable 

乙毗沙鉢羅葉護可汗 ( リダイレクト:乙毘沙鉢羅葉護可汗 ) : ウィキペディア日本語版
乙毘沙鉢羅葉護可汗[あせ]
乙毘沙鉢羅葉護可汗呉音:おちびしゃはちらようごかがん、漢音:いつひさはつらようこかかん、拼音:Yǐpíshābōluóyèhùkĕhàn、? - 641年)は、西突厥可汗沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)の弟の伽那設(カーナー・シャド Kānā Šad)の子。乙毘沙鉢羅葉護可汗(イビル・イシュバラ・ヤブグ・カガン)というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。薄布特勤(『新唐書』では畢賀咄葉護)というのは官名である。
== 生涯 ==
貞観13年(639年)、沙鉢羅咥利失可汗配下の吐屯俟利発(トゥドゥンイルテベル:官名)が乙毘咄陸可汗(イビル・テュルク・カガン)と密通し造反したので、沙鉢羅咥利失可汗は拔汗那(フェルガーナ)国に逃れたが死去した。国人はその子を立てて乙屈利失乙毘可汗としたが、翌年(640年)になって死去した。そこで、弩失畢部の酋帥は沙鉢羅咥利失可汗の弟の伽那設(カーナー・シャド:官名)の子である薄布特勤(畢賀咄葉護)を迎えて、乙毘沙鉢羅葉護可汗とした。
乙毘沙鉢羅葉護可汗は、睢合水(スーヤーブ川 sūyāb)の北に可汗庭(首都)を建て、これを南庭とした。東は伊列河(イリ川)をもって境界とし、亀茲国,鄯善国,且末国,吐火羅国,焉耆国,石国史国何国穆国康国から節度を受けた。乙毘沙鉢羅葉護可汗はしきりにへ遣使を送って朝貢し、太宗は璽書を下して慰勉してやった。
貞観15年(641年)、太宗は左領軍将軍の張大師に命じて乙毘沙鉢羅葉護可汗に鼓纛を賜わせた。この頃西突厥では、乙毘沙鉢羅葉護可汗と乙毘咄陸可汗が頻繁に攻撃し合っていたので、太宗は乙毘咄陸可汗が遣使を送って宮闕に詣でて来た時に、和睦するよう説得した。この時の乙毘咄陸可汗の兵衆は次第に強盛となっていったので、西域諸国はふたたびこれに帰服した。しばらくして、乙毘咄陸可汗は石国に吐屯(トゥドゥン:官名)を派遣して、乙毘沙鉢羅葉護可汗を攻撃させた。乙毘沙鉢羅葉護可汗は捕えられ、乙毘咄陸可汗のもとへ送られて殺された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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