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九九式二〇粍機銃(きゅうきゅうしきにじゅうみりきじゅう)は大日本帝国海軍(以下、日本海軍)に採用された航空機銃であり、エリコンFF並びにエリコンFFLをライセンス生産した九九式一号二〇粍機銃並びに九九式二号二〇粍機銃、及び両者の改良型を指す。 == 導入の経緯とその後の改良 == 1935年(昭和10年)夏頃、日本海軍では航空本部長山本五十六中将の主導の元、大型爆撃機に対処可能な大口径機銃の導入が検討されていた。航空本部技術部首席部員であった和田操が中心となって各国の大口径機銃を比較検討していたところ、在フランス武官からエリコンFFの情報が入ったことから、急遽サンプルを輸入して調査が行われた。調査結果が良好だったことから導入が急がれたが、完成品輸入では戦闘機の生産機数を把握されかねない為、製造権を取得し民間会社での国内生産とする事になった。1936年(昭和11年)6月にエリコン社とライセンス契約が結ばれ、1937年(昭和12年)夏には大日本兵器株式会社(当時は富岡兵器製作所)において九九式一号二〇粍機銃の名称(当時は「恵式二〇粍機銃一型」。1941年(昭和16年)に改称)でエリコンFFのノックダウン生産を開始、1938年(昭和13年)3月にはエリコン社の技師6名が来日し技術指導をし、7月にはライセンス生産に移行した。九九式一号二〇粍機銃は、まず九六式陸上攻撃機に旋回機銃型(独自に開発)が搭載された他、当時試作段階にあった零式艦上戦闘機(以下、零戦)や一式陸上攻撃機等への搭載も決定され、日本海軍の主力航空機銃となった。開戦により需要は逼迫し大日本兵器株式会社は富岡に加え6箇所に工場の増設を行なったが、後には海軍の豊川海軍工廠、多賀城海軍工廠でも生産され、生産総数は各形式合わせて約35,000挺とされる。 実戦配備当初は給弾不良や暴発等の初期故障が頻発したが、1941年(昭和16年)末までには概ね解決された。1942年(昭和17年)夏頃からドラム弾倉が60発入りから100発入りの大型へ徐々に切り替えられ、採用当初から問題になっていた携行弾数の少なさの改善が図られた。1943年(昭和18年)春からはエリコンFFLをライセンス生産した九九式二号二〇粍機銃の生産が始まり、零戦二二型甲~五二型や、月光一一型に搭載された。初速の増大によって破壊力・弾道特性とも改善された二号銃は現地部隊でも好評で、二号銃搭載零戦の早期補給を要望する中央への電文が残されている。 1943年(昭和18年)秋にはベルト給弾化された九九式二号二〇粍機銃四型の生産が始まり、零戦五二型甲以降の他、雷電二一型~三三型甲、紫電一一型乙~二一型等に搭載された。1944年(昭和19年)秋から翌1945年(昭和20年)冬にかけて九九式二号二〇粍機銃四型の発射速度増大型及び九九式二号二〇粍機銃五型が開発され、前者は何とか量産に漕ぎ着けて一部が実戦配備されたものの、後者は量産準備中に終戦を迎えている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「九九式二〇ミリ機銃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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