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九鬼 隆一(くき りゅういち、嘉永5年8月7日(1852年9月12日)?〔公的資料は生年を嘉永5年としているが、嘉永3年の可能性を示す資料も存在する。高橋、19-20頁。〕 - 昭和6年(1931年)8月18日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の官僚、政治家。旧綾部藩士。男爵。号は成海。 摂津国三田出身。慶應義塾に学んだのち文部省に出仕し、若くして文部少輔(現在の事務次官)にまで栄進。1884年(明治17年)、駐米特命全権公使に転じ、1888年(明治21年)に帰国すると図書頭、臨時全国宝物取調委員長、宮中顧問官、帝国博物館総長を歴任。美術行政に尽力した。また貴族院議員、次いで枢密顧問官を兼任。1900年(明治33年)に総長を退いてからは枢密顧問官を長く務めた。1914年(大正4年)には郷里に三田博物館を設立し、自らの美術コレクションを展示・公開している。息子は哲学者の九鬼周造。 == 生涯 == === 三田藩・綾部藩時代 === 嘉永3年(1850年)、三田藩の家臣で180石取りの星崎貞幹の次男として藩内の屋敷町(現・兵庫県三田市)で生まれた。幼名は貞次郎。1860年(万延元年)に母・龍が亡くなるが、藩主・九鬼隆義の斡旋で、跡継ぎを探していた綾部藩家老・九鬼隆周の養子となる。慶応元年(1866年)に家督を継ぎ九鬼家の当主となった。〔『現代 有馬郡人物史』p11。〕 三田藩の藩政改革に携わっていた福澤諭吉が大阪江戸堀の藩屋敷で饗応された際に同席し、面識を得る。明治2年(1869年)5月19日に九鬼隆義と共に上京した際に福澤を再訪し、藩の推薦もあって慶應義塾(後の慶應義塾大学)への入塾を許可された。同年11月、綾部藩の洋式練兵中隊長、権少参事などの職に就き、山陰鎮撫総督として丹波街道の塚原口を受け持った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「九鬼隆一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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