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二条 定輔(にじょう さだすけ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。正二位権大納言、太宰権帥。二条大納言、また二条帥入道と号す。坊門中納言藤原親信の長男。母は官女半物阿古丸。本名は親輔。妙音院相国藤原師長の琵琶の高弟として知られる。子に親定、兼信、兼輔、博輔、女子(姉小路実世の室)がいる。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 承安2年(1172年)1月5日、叙爵〔この時、親輔。〕。承安3年(1173年)11月2日、従五位上に昇叙。安元3年(1177年)1月24日、右馬頭に任ぜられる〔父親信が同日に従三位に叙せられた替え。〕。治承3年(1179年)1月5日、正五位下に昇叙〔右馬頭の労による。〕。同年11月17日、停任される〔入道太政大臣の訴えによる。〕。治承5年(1181年)3月26日、周防守に任ぜられる。養和元年(1181年)12月4日、従四位下に昇叙。寿永元年(1182年)11月23日、従四位上に昇叙(院臨時御給)。寿永2年(1183年)1月27日、右少将に任ぜられる。周防守は元の如し。元暦2年(1185年)1月20日、正四位下に昇叙。同年6月10日、周防守を止める。文治3年(1187年)5月4日、修理大夫に任ぜられる〔右少将を止め、父親信の譲りによる。〕。文治6年(1190年)1月24日、内蔵頭を兼ねる。 建久2年(1191年)12月30日、従三位に叙される。内蔵頭を止め修理大夫は元の如し。建久8年(1197年)7月12日、喪の服し、9月20日に復任する。建久9年(1198年))11月25日、正三位に昇叙。正治元年(1199年)6月23日、左兵衛督に任ぜられる。修理大夫は元の如し。 正治2年(1200年)4月1日、参議に任ぜられる。左兵衛督と修理大夫は元の如し。正治3年(1201年)1月29日、能登権守を兼ねる。8月19日、息男親定を左馬頭に挙任するため修理大夫を辞した。11月30日、検非違使別当に補される。建仁2年(1202年)7月23日、権中納言に任ぜられる。左兵衛督と検非違使別当は元の如し。建仁3年(1203年)1月5日、従二位に昇叙。同月13日、督と別当を辞した。5月27日、勅授帯剣を許される。元久2年(1205年)7月18日、正二位に昇叙。11月24日、中納言に転正。承元3年(1209年)4月10日、権大納言に任ぜられる。承元5年(1211年)1月18日、権大納言を辞した。 建保5年(1217年)6月29日、太宰権帥に任ぜられる〔但し、息男左馬頭兼信は職を止められる。〕。承久3年(1221年)7月、恐懼に処せられ閏10月9日には出仕を免ぜられる。12月10日、太宰権帥を止める。本座勅授を許される。貞応2年(1223年)2月17日、出家。嘉禄3年(1227年)7月9日、薨去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二条定輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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