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仁木 義高(にき よしたか、生年不詳 - 建武3年9月13日(1336年10月26日))は南北朝時代の武将。通称は孫太郎入道。子は仁木義長(通称弥二郎、仁木氏嫡流となった仁木義長とは別人、本文中では「弥二郎義長」とする)。 == 生涯 == 仁木氏庶流の一族であるが、系譜上の位置付けは不明である〔仁木氏系図に始祖実国の直系として同名の「弥太郎義高」が登場するが、その所伝は鎌倉期に越中国で戦死というものであり別人である。〕。足利尊氏が建武政権から離反した後、仁木頼章・義長兄弟は丹波国や九州など西国で軍事活動を展開したが、義高・弥二郎義長父子は細川頼種らとともに本貫地三河の守備部隊に属した。 建武3年(1336年)4月8日に新田左馬助〔新田義氏。「吉良町史」では江田義氏と推測している。一方、「新田岩松氏」では大井田義氏が該当するとしている。〕率いる遠江の南朝軍が三河に侵攻すると、義高・弥二郎義長・頼種らは「宮内少輔四郎」〔吉良貞経と考えられている。同項参照。〕の指揮の下、新田軍と戦う。戦いは足利方有利に進み、4月20日に吉良荘(愛知県西尾市)、6月8-9日に宝飯郡八幡、6月28日に宝飯郡本野原(いずれも愛知県豊川市)というように西三河から東三河へと合戦の場が移り、新田勢は三河から退却した。半年後の9月に入ると、逆に足利勢が遠江に侵攻、13日に浜名湖東の篠原で合戦が行われ、敗走する新田勢を追撃中に天竜川畔で義高は討死した。息子の弥二郎義長は恩賞申請のために軍忠状を提出し〔「仁木義長軍忠状」(古文書集「榊原文書」)〕、同文書写しが残ったため、合戦の経過が後世に伝わることとなった。弥二郎義長のその後の動向は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仁木義高」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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